2020/02/08    ガンダーラと田辺さん

                   アフガニスタン バーミヤンの石仏(高さ55メートル) 1972年10月
 
 
 「学者」とか「専門家」について書き記すとき基準にする学者がいる。はじめからそうしていたわけではない、いつのまにかそうなっていた。その人に較べるとほかの学者が陳腐でつまらなくみえてくるのだ。
 
 1972年、朝日新聞の子会社(当時)が企画した「パキスタン&アフガニスタン」の旅(約4週間)に東京大学総合研究資料館助手・田辺勝美さんは講師として招聘される。
パキスタンは独立後インドの東西に分かたれ、東はバングラディシュ(1971)となるのだが、ときおりしもバングラディシュ内戦のさなかだった。16名の旅行者に添乗員(栗原さん)、田辺さんとで総勢18名、過半数は中年(根本さん、池田さん、新井さんなど)、20代半ばに滝田さん、工藤さんなど4名、20代前半のわたしが最も若かった。
 
 パキスタンのタキシラ・シルカップ遺跡(ガンダーラ)やスワートを見学したときの田辺さんの解説はほとんど忘れた。記憶に鮮明に残っているのは、田辺さんにさそわれてラホール博物館へ行ったとき、そして2年間留学したペシャワール大学へ田辺さんの旧友に会うため同行したときのことである。
 
 ラホール博は撮影禁止なのだが、副館長に会って許可を得ましょう、館長は名誉職にすぎず常駐しておらず、博物館に関する事柄の支配権は副館長が握っていると訪問前に話していた。
一見鷹揚な副館長は自己紹介をすませ本題に入ったとたんキラリと目を光らせた。撮影禁止であるけれど、写真1枚モノクロは1ルピー、カラーは5ルピーとふっかけてきた。
 
 田辺さんは平然と言い放つ。いまどきモノクロ撮影する者はいない、フィルムはすべてカラーである。ここまで来て10枚、15枚撮って帰る人がいますか。それに、アングルを変えて2枚撮影する。同一の仏像であれば2枚撮っても1枚の料金にすべきだ。
また、全身が残る仏像もあれば、半身だけとか頭部のみのものもあり、仏陀誕生以前のレリーフ、仏陀以外の菩薩、阿弥陀なども多く、続きもののレリーフもある。撮影は200セット400枚以上になる。
 
ワンセット(2枚)を1枚と換算し、200セットを下った場合は何枚でも200ルピー、上回ったときは枚数ごとに2ルピー加算するということでどうでしょう。横にいるわたしに「どうですか?」とたずねたが、むろん異存はない。
広い館内には想像していたよりはるかに多い仏像がガラスケースにおさまっている。ガラスケースなしの仏像やレリーフもある。日本で経験したこともない数に圧倒された。
 
 当時のパキスタン・ルピーの為替レートは1ルピー約5円だった。パキスタの官吏の平均的月収は当時3000円(日本は5万円)、田辺さんとわたしと併せれば最低でも400ルピーになり、月収の7割弱を2時間もしないうちに稼げるわけである。100かそこらの小遣い稼ぎという腹づもりの副館長は暗算が得意とみえ、田辺さんに右手をさしのべた。交渉成立だ。
 
 副館長はさりげなく、しかし抜け目なくわたしたちの後に番人をつけて見張らせる。背が高く容姿にすぐれた番人はつかず離れず影のように黙ってついてきた。そのすがたが堂に入っていることから、こういうことに慣れている男なのだろうと思った。
 
 ラホール博物館を出て歩いていると田辺さんは、「パキスタンの役人はあんなものです。自分も得、相手も損しない決定には文句を言いません。議論より妥協のほうが早い。数がまとまればバナナのたたき売りです」、「一般の市民は別。例外もありますが、相手を尊重し、交流と恩義を重んじます」と言った。
 
 田辺さんはつなごうとしたことばを切った。その人に合う塩梅の語らいがあり、副館長にしても話のわからない人ではないと言いたかったにちがいない。博物館へ行く前におおよそのことはふたりで話し合っていた。「200枚は撮るでしょうね。いくらまでなら出しましょうか?」ということで邦貨の上限を1人1500円にしたのだ。
 
 「ペシャワールで2年暮らしてよかったなと思えるのは、ガンダーラに生まれ、死んでいった人たちを身近に想像したことです。ガンダーラに行くこともなく、図や写真だけ見て研究室、書斎で考察したり、かりにガンダーラへ行ったとしても、民の存在を無視するような、愛惜のかけらもない学者が頭のなかで創作した説が仏像の起源となるのであれば、本質は解明されないでしょう」。田辺さんはそう語っていた。
 
 16年後(1988年10月)、「ガンダーラから正倉院」(田辺勝美)「第1章・ガンダーラ仏の起源」で田辺さんが記したことは、あのころを追懐するに十分だった。「血のかよった、人間くさい考察」とも記している。
 
 1982年8月下旬、三越本店で開催された「古代ペルシャ秘宝展」出品物の多くが贋作であると指摘したのは田辺さんだ。この展示会の監修は東京大学名誉教授・高田修(「仏像の起源」の著者)である。
後に開かれた記者会見でも田辺さんは贋作と主張した。売名行為と評する大たわけもいた。ガンダーラ仏の図像学をほんのすこしかじった(実は田辺さんにツボを教わった)無学に等しい浅学のわたしにさえわかるのだから、贋作は当然だった。
 
 ガンダーラ仏の考証に関して、20世紀半ばごろまでに唱えられたヨーロッパの先学の受け売りというほかない日本の学者・研究者は、専門的知識も経験もないまま彼らの学説を鵜呑みにしてきた。ヨーロッパの学者の先入観や見落としなどに目もくれなかった。鵜呑みは自らの乏しい鑑定眼を助長するのに役立っていた。田辺さんの出現に仰天すればよかったろうに。
 
 経緯は省く。帝国大学の逆襲は想像を絶する。田辺さんは学内に居場所を失うところまで追い込まれる。そんなことは田辺さんは千も承知で、孤立しても自ら信ずるところに立ち続けたのだ。
渦中の田辺さんに会った。深刻なようすは見られず、むしろ望むところだという顔をしていた。が、孤独感はにじんでいたように思う。東京大学を離れた田辺さんは古代オリエント博物館研究部長に招聘され、主にシリア、イラクでの発掘調査隊を指揮した。
 
 1987年5月に奈良国立博物館で展示されたガンダーラ仏(菩薩像)をめぐって同年7月、真贋論争がくり広げられた。論争に関して多方面からさまざまな意見が寄せられた。
1980年代、ガンダーラ仏についての学術論文をすでに発表し、ガンダーラ仏の専門家として成果を得て欧州の学者に認知されていたが、日本ではあまり知られておらず、一般書刊行もみられず、突然表舞台にあらわれたという印象を持つ人が多かった。
 
 論評する者たちは田辺さんの経験、博覧強記、観察力、分析力をロクに知りもせず評したのである。彼らの拙い経験と感性、認識力で計り知れるものではないのだ。田辺さんを擁護したのは仏教美術史の町田甲一氏のみと記憶している。
 
 その後、田辺さんは金沢大学、中央大学の教授を歴任する。田辺さんを思い出すとき、天竜川をいかだで漕ぎ、さかのぼる人が目に浮かんでくる。田辺さんは「天竜市で育ちました」と語っていた。
「ガンダーラから正倉院へ」発刊の11年後1999年12月、「毘沙門天像の誕生」を上梓された。ガンダーラを語るとき、そして毘沙門天について、いや、仏像について知りたい人にとって画期的、魅力的な書である。
 
 あれから48年半が過ぎ去った。遠い記憶なのにきのうのことである。田辺さんと相部屋だったから、短い間だったけれどパキスタン、アフガンで寝食を共にさせていただいた。
部屋の風呂は「お先にどうぞ」と8歳か9歳下のわたしを先に使わせてくださった。最初、「いえ、年長優先で」と言うと田辺さんは、「それほどちがいませんよ」と笑った。アフガンの旅仲間から「田辺先生」と尊敬の念と親愛の情をこめて呼ばれていた。アフガニスタンについてはいつか近いうち、くわしく書き記す日が来るかもしれない。
 
       ※田辺勝美さんに関しては「書き句け庫」2015年9月23日「シリア難民問題に思うこと」にも記しています※
 

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