2020/03/15    春の雪 紋別
 
 あれはもう30年くらい前だったか、1990年前後のある年の3月上旬、道東紋別市に午後11時過ぎに降り始めた雪が午前6時ごろまで降ったのは。
 
 昭和49年(1974)8月に竣工した本館にはセントラルヒーティング(給湯暖房)が設置され、8〜10名同時に入浴できる風呂場の横にボイラー室があり、11月から4月は24時間稼働していた。
紋別の冬はマイナス20℃以下に下がる陸別町ほど厳寒ではないが、マイナス12℃程度に下がり、夜、外に出るとまつげがシャーベットになる。紋別滞在中、マイナス15℃は経験した。マイナス24、7℃の最低気温を記録した昭和53年(1978)2月18日は市内にいなかった。
 
 大型暖房と二重窓は冬の生活に不可欠。9月に収穫し、数週間天日干しにしたマサカリと呼ばれる極甘のカボチャ数十個を屋外の倉庫に収納せず、ボイラー室に置く。屋外は冷凍庫だ。生カボチャを1個、丸ごと冷凍するとどうなるか、試してみればわかる。
 
 ボイラーの耐熱ガラス窓をとおして見る炎は、濃いオレンジ色で、燃えさかるかたちは猛烈に怒っている不動明王の光背である。不動明王は声を発さなくても、怒声が聞こえるような気がするのは、自分におぼえがあるからだろう。ボイラーはゴォーと声を立てる。
 
 母(大正15年生まれ)は利尻島・鬼脇のニシン御殿の離れで生まれた。小学生低学年まで利尻の小学校に通っていたが、祖母(明治19年生まれ)は母を連れて行脚した。
網元だった夫や、祖母の郷里・酒津(さけのつ 鳥取市気高町)、西伯郡淀江町の有力者、あるいは毛利の分家吉川などの紹介で全国の寺社を行脚する旅に出たのだ。
 
 弘法大師に帰依した祖母連れていかれた母は高野山逗留後、熊野、伊勢、大山(鳥取)などの神社、寺院で権宮司・宮司や高僧の教えを請ったという。高位の人々に会えたかの理由を母も祖母も明かしていない。
祖父(明治16年 鳥取県西伯郡淀江町生まれ)が寺、神社に高額の寄付をしていたと伯母が話していた(別の伯母の言は「ばらまいた」)。コトシロヌシの神を祀る美保神社(松江市)もそのひとつ。
 
 北海道選出の貴族院議員(男爵か子爵か思い出せない)に祖父が莫大な現金をわたすところを目撃したという伯母の話を聞いたことがあり、特段意外とも思わなかった。
 
 小生が東京に滞在していた昭和43年から6年間、橿原神宮の権宮司(後に千葉県一宮町の玉前神社・宮司)の紹介で、母は一般人は見ることのできないご神体、宝物を見ており、伊勢、熊野、橿原神宮などへお詣りするさい、非公開の場所もフリーパスだった。禰宜、権宮司などの神官は神社本庁から暫時派遣され、異動があり、宮司就任後しばらくして定年となる。
 
 母の金銭感覚は尋常ではなかった。祖父の跡取りと目されていた伯父(四男)は、理由はわからないが船長から鉱山経営に鞍替えした。当初は順調にいっていたものの、母は伯父の借金を肩代わりする。
 
 神社参拝時、借金してまで神官へ大枚お供えしたことを思い出す。「十分なことをしないと」と母はクチにした。対象は袖振り合わせる人々ほとんど。子は親に似る。19歳くらいから40歳ごろまで小生の金銭感覚も麻痺していた。
10人兄姉の末っ子の母は良くも悪くも特別だった。「お金は天下のまわりもの」と言っていた。小生もそう思ってはいた。しかし母は実践した。
 
 戦中、母は鳥取にいた。昭和18年9月10日、「毎日新聞鳥取版」に母が鳥取地震を予言したと掲載され、数日後、戦地に行った肉親は無事かとか、家族の病気は治るかという相談に来る大勢の人で、「毎日、家(母の滞在先)のまわりは輪ができた」と1980年代、鳥取市内の老女(元女学校教諭)が話してくれた。「女学校時代、ESSの部長だった」と母は言っていた。気前がいいから推されたのだろう。
 
 祖母が母を連れていったように、母は幼い小生を連れて高野山、金峯山、伊勢神宮などにお詣りした。記憶に残っているのは、荘厳な建築物でも拝殿でもなく、神官の顔と一夜の宿。宿は明治初期まで庄屋だったと思われる大きな家屋で、隣接する森は、昼間は昆虫の宝庫、夜間はタヌキ、フクロウの猟場だった。
 
 話は前後する。行脚のあげく帰り着いたのは利尻ではなく紋別。漁港紋別には祖父の拠点があり、祖父に雇われた漁師が多数いて、番屋もあった。当時、紋別近郊の鴻之舞・金山が活況を呈していた。母は利尻から紋別の小学校に転校する。
母が自分の子ども時代を語りはじめたのは小生の大学在学中。母が熱いご飯に黒砂糖を入れて食べるのを見たのもそのころだ。なつかしかったらしい。
 
 ニシン漁やカニ漁から帰った漁師が真っ先に行くのは番屋である。何をするかというと、まず炊きたてのご飯を食べる。単に空腹というだけでなく、血糖値が下がっている彼らは丼メシに黒砂糖を入れて引っかき回す。沢庵や簡単なおかずはあっても、ほとんど手をつけない。濃厚な甘味が疲労回復の即効力になる。
 
 紋別在住の従兄(15歳上)から聞いたのは、戦後の札幌や旭川に流れてきた暴力団の一部が紋別に来たらしい。「で、どうなったの?」というと、漁師が一掃した。港で喧嘩もあったそうで、上回る数のやくざをこてんぱんしたという。天津敏も遠藤太津朗も真っ青。
沖合に出れば帰ってくる保障のない漁師はやくざなど比較にならないほど腕っぷしが強く、しかも命知らず。暴力団より恐い荒海で鍛えているのだ。山師となった伯父の弟(五男 大正6年生まれ)は別の漁船の船長で、昭和26年5月、乗組員と海に出たまま帰らなかった。33歳だった。
 
 小生は帰省したおり、火事になるほど熱いご飯に黒砂糖を入れて食べてみた。黒砂糖のかたまりがとろりと溶け、いかにもうまそうな感じになったのを見定め、メシと共にほおばった。
甘いのは当然として、思ったほどの味ではなかった。漁にも出ず、肉体労働もしていない身である、即効力もへったくれもない、黒砂糖メシは漁師の労働後の絶品なのだ。
 
 母が亡くなったのは1998年誕生月の2ヶ月前、現在の小生と同い年だった。通夜終了後、紋別の親戚のひとり(母の実家姓を継ぐ人)は、「お墓は紋別にあるほうがいいような気がする。叔母さん(母)は紋別が好きだったから」とつぶやいた。母は夫の墓に入りたくないと生前言っていた。一理ある。
小生の世代が全員死滅したら母は無縁仏同然となってしまうだろう。それでもかまわないということなのだ。宗教家で信仰心の篤い人だったけれど、あの世を信じていなかった。この世でおきたことはこの世で解決すると言っていた。銀河系の隅っこにもあの世はないだろう。
 
 2005年にはじまった大学時代のOB会(毎年1回)では互いに家族の話はほとんどしない。家族について突っ込んだ話をするのは親しい間柄の相手だけで、その人以外はあたりさわりのない表面的なことしか話さない。
しかし、A君、KY君、U君、MK君、NYさんの話はおもしろかった。その人しか語れない話をした。名優がそうであるように独自の個性を持ち、陳腐な話をしなかった。
 
 小生の母は気前がよすぎたし、父も気っ風がよかったせいか、男気のある人間に目がいく。千葉県在住の同期HJ、神奈川件在住の後輩KM君は男気がある。HJとKM君は行動で示すタイプ。
 
 再会時から2年ほどは表面的な話や、OB会なら誰でも話すありきたりの話題でも気にならないけれど、いま思えば、5年でも長いのに10年は長すぎた。
OB会でおぼえているのは、KT君の息子さんやKT君ご自身の病気のこと、NYさんの息子さんが語ったという埴輪の話、U君が奥方について語ったこと、MK君の子どものこと、KY君と奥方の四国遍路、HKの子どもたちの話。U君はこんな話もした。「孫はかわいいですが、嫁は腹が立つ」。ホンネが笑いと共感を呼ぶ。
 
 引っ越して3年になり、そのつど転居先から年賀状を送るものの、いまだに気づかない後輩がいる。さすがに同期や親しい後輩、人並みの注意力ある後輩にそういう人はいない。
が、表面的な方々は、毎年更新されるOB会(同好会)名簿の最上部にのっている小生の住所を見ないか、見ても気づかない。名簿記載は20数名で1枚のペーパーであるから、注意力散漫か、老いのなせる見落としか、あるいは表面的な関係のせいなのか。
 
 感慨とよろこびにあふれた第1回目(2005年10月)のOB会に勝るものはない。その後の経緯はどうあれ、30年以上経過して再会できたこと、学生時代の思い出の地・嵐山嵯峨野を共に歩いたこと、語らいの場を持てたことがすべてだと思う。
 
 そんなことより母が言っていた「白髪の老人」が気になる。夢のなかに決してあらわれはしないのだが、もしかしたらあらわれたかもしれない。忘れているだけかもしれない。白髪の老人とは何者か。母が出会った古老なのか。神がかった人間にしか見えない謎。
存在しないあの世へ導く神ではないだろう。厳しさや寛やかでは推し量れない大きなもの。万物の根源、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)? すべての元素を生みだしたのが白髪の老人という記憶もある。
 
 本館と呼ばれた建物の生活用水は地下水である。敷地内のゆたかな地下水のわき出る場所から水道を引き、飲み水、水洗トイレ、洗面所、風呂場に使った。紋別市保健所の水質検査によると、「きわめて良質、ミネラル豊富」、「この場所なら枯れることはありません」という太鼓判。真冬でも凍らない清水。味もわるくなかった。
 
 敷地にタヌキはいないがキタキツネとミンクが住み、ホッホと鳴くフクロウを見たことはなかったけれど、代わりにトンビがヒューホロロといい声をきかせてくれ、歌の文句みたいにくるりと輪をかいた。昭和50年くらいまで紋別にいたコウモリはいつの間にかすがたを消した。
なくなったのは、夕暮帰路につく人の頭上を飛ぶコウモリだけではない、空に溶けこむ黄昏色が消えた。行きかう人は茜色、水色、グレー、薄紫の衣裳をまとっていた。あの色、澄んだ空気を思い出すとコウモリでさえなつかしい。
 
 2020年3月15日時点、新型コロナウイルス感染が混乱をもたらしている。かつてSARSが、コウモリに感染したウイルスが原因とする説があり、コロナウイルスもそうではないかという者もいるそうだ。
得体の知れない相手に対して憶測、流言飛語がささやかれるのは世の常。国によっては絶滅状態のコウモリ、どこの国のコウモリのことか不明。中国という迷惑星に棲息しているのか。
 
 いつのころからかリスク管理とかリスク回避とかが叫ばれ、企業の新入社員もリスクが口癖となり、若いママも唇をとんがらせてリスクと言う。リスク管理も回避もおおいに結構。結構でないのは、タカをくくって回避しない40〜50代の元気おばさん・おじさん。
 
 3月9日、前日の公演再開発表をうけて全国から宝塚大劇場へ観劇しにきた人たちは何者か。3月10日も公演した。宝塚大劇場は2550名収容の大規模クラスター。コロナウイルス感染は飛沫感染によってのみおこるものではない。マイクロ飛沫による感染もある。
ライブハウス、劇場といった場所にいると客はエキサイトし、息が荒くなる。そのとき、100分の1ミリほどの小さな飛沫=マイクロ飛沫が口腔から出て、空気中を約20分間ただようのだ。感染経路不明のなかにはマイクロ飛沫が関係しているかもしれない。それは人から人へ広域におよぶ。
 
 3月9日YAHOOの記事によると、誤報でなければ彼らは団結力と言っていたらしい。宝恷s内に居住するいけいけどんどんの元・盗塁王(70代)も宝怎tァンで、おばさんたちと合唱していたという。年齢からいえば合掌だろう。「スミレの花咲くころ」コロナ満開は「心ふるえる」(括弧内はおおむね歌詞)。
高齢ともなると生きていること自体がリスクである。病魔はどこからでも襲いかかってくる。リスクの生じる場所で球場応援団のごとくふるまった観客。多数の批判を浴び、あわてて10日、翌日からの公演を中止した親会社「阪急電鉄」のみっともなさは特筆に値する。
 
 
 話をもどす。1990年前後の3月上旬、夜ふけの吹雪はめずらしくもなく、いつものように午前零時過ぎ床についた。朝、何時ごろだったろうか、いったん目覚めたが、カーテンの向こうはまだ暗く、枕元の時計を見もせず眠ろうとした。玄関さきでかすかに音がする。キタキツネが食べものをもとめて玄関扉をたたくことがあり、そのうち誰か起きてくるだろうと思い布団をかぶった。
 
 ヘンな音はおさまらず、気になって玄関へ向かった。動く人影が見えた。声をかけたら、「町谷と高島です」と遠くの方で呼んでいるような声だった。地元の信徒会長と市会議員だ。町谷さん大正12年、高島さん昭和4年生まれ。
 
 屋根近くまであった雪を取っ払った二人の一人高島さんが言った。「零時過ぎから吹雪いてさあ、ウチらで60センチ積ったのは久しぶりだわ。ここは丘の上だし、本館の前は吹きだまりだっぺ、屋根まで積ったさ。雪がふさいでたから中は暗かったべ。9時過ぎに市の雪かき車が上ってきて、道の雪かきしてくれる。なんも心配ない。」 深夜〜早朝の吹雪がウソのような青空だった。
 
 吹きだまり。吹雪が強風に押されて建物や障害物にあたり、どんどん積み重なってゆく。
二人が来なければ、最優先で雪かき専用車をまわしてくれなければ、建物の扉は相当な時間、雪で閉ざされ、道路への小道も阻まれていただろう。お世話になった全員疾病をかかえ、21世紀まで生き残らなかった。
 
 3月上旬までの雪はさらさらのパウダースノー。中旬を過ぎると雪は徐々に重くなる。量が同じなら、真冬の雪のほうが軽いから雪かきも重労働ではない。小生にとっては常に重労働であるけれど。
流氷がオホーツクの彼方に去った3月中旬、紋別の自然は一変する。雪下の大地がよみがえり、萌えてくるのだ。そうなると植物も動物も踊りだす。踊るような愉しい語らいを打ち切られて早25年、泉下の人を見つめつつ。遠い記憶、紋別、春の雪。とりとめない話。
            
                 
                   3月中旬 紋別市の或る丘陵 本館裏で作業 1980年代後半


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