2020/03/27    幽囚の英国
 
 あれは誰であったか、人は過去の幽囚であり、過去は人の幽囚であると言ったのは。年々、過去にフィードバックする回数が増えてゆく。若いころはフィードバックしようにも累積がすくなすぎて心に響かない、もしくは届かない。
私たちは過去の累積にほかならない。未来の自分をかたどっているのは過去であり、人間は過去を語ることによって彫りが深くなる彫像である。
 
 経験に比例して蓄積は増えるはずだが、健忘症や固定観念にとらわれた人間は蓄積量が著しくすくないだろう。固定観念が優先すれば別のものを認めない。健忘症についてはいわずもがなである。
 
 望めば夢にみるというが、そういう経験は子どものころにあったきりで、深夜、夢からさめてつづきをみたのは、記憶が正しければ数回。
2018年12月までMさんの追懐やら夢やらを散々「書き句け庫」に記したせいか、2019年以降Mさんは夢のなかに登場しなくなった。「いっぱい書いてるのだから、もういいでしょ」と言う顔が目に浮かぶ。
 
 そのかわり2020年になってかたちを変えて登場するようになった。伴侶が語りかけるときの小生の顔に関して、ここはいいかげんに聞こうとか、澄まし顔とか、ふくれっ面、おどけ顔など小生の顔がMさんの顔になっている。
そういう気持ちで聞いていたのかと半世紀たって、素知らぬ表情とふくれっ面がよみがえる。夢に出てこなくてもMさんは日々時々あらわれるようになった。小生に残された時間に期限がせまっているのだろう。
 
 1969年8月ヨーロッパを旅したことがその後の自分を決定づけたような気がする。フィレンツェ・ミケランジェロ広場の眺望、ピサの斜塔など、わるくはなかった。
ロンドンの観光名所は大英博物館以外たいしたことはなく、それよりハイドパークの深い緑の静寂、全体が公園のような温泉保養地バーデン・バーデンの夜間野外コンサート(無料クラシック音楽)に魅せられた。ロンドンは1969年以来行っていない。
 
 ヨーロッパ旅行は1975年10月のギリシャを最後に1987年まで途絶える。ガンダーラ仏の源流かもしれないギリシャをヨーロッパ探訪最後の地にしようと思ったのだ。
しかし、1969年から1975年までの旅で深く刻印されたのはヨーロッパではなくアフガニスタンだった。10年におよぶソ連の進攻がなかったらアフガンを再訪していたろう。
 
 ソ連を追い返してからもアフガン内戦はつづき、外務省はリビア、北朝鮮に加えて渡航禁止国に指定する。タリバン、アルカイーダの台頭、殺戮行為などその後の経緯は周知のごとし。
観光ビザは発行されず、就業ビザを取得し、アフガン難民救済事業の一貫、あるいはボランティアとしてパキスタン経由アフガンへ入国した日本人はいた。そういう人々をながめつつ小生は指をくわえるだけだった。
 
 アフガニスタンのように心を動かされる国、いや、ありていにいえば魂を奪われるところへ旅することは生涯ないだろうと思った。1987年3月以降、度々ヨーロッパへ行った。その時々に伴侶と感動をわかちあい、何年たってもヨーロッパの話に花が咲く。
1999年4月の北フランスとスコットランドへの旅を、関空搭乗待合室で出発を待っている身に得体の知れない病魔が襲いかかり旅行を中止せざるをえなかった。航空会社のクルーなどの専用通路から出させてもらい、その後どうしたかおぼえていない。
 
 1週間の療養をへて再起、5月上旬には英国旅行の計画を立てた。なぜ英国だったのか、よくわからない。啓示があったとかではない。とにかく1999年6月中旬、アムステルダム経由で南ウェールズ・カーディフに降り、18日間レンタカーの旅がはじまった。
アフガニスタンが究極の旅であると27年間思いつづけてきたのは半分正しく、半分誤りだ。旅の収穫が心の風景との出会いであるなら、英国で心の風景と出会うために生かされてきたのかもしれない。啓示をうけて英国を旅したのではなく、旅によって啓示を授かったのである。
 
 英国を何度も旅して実感したのは、英国がおとなの国であるということだ。世の中に流されても逆流してもそれぞれの生き方であろうし、性格はおい、それと変わらない。
問題は主体性の有無ではない、自意識過剰が成長を阻み、ありもしない仲間意識が依頼心を助長する。何がおとなで何がおとなでないか、解答は自分で見つけるべきだろう。
 
 日本の報道番組でよくある質問のひとつが、「選手の気持ちをどのように思いますか?」。
学級新聞を発行する小中学生女子がクラスメートにおこなう質問じゃあるまいし、東京五輪延期発表直後、民放各局が山下泰裕JOC会長に投げかけた。
気の毒に山下氏は生真面目にこたえていたけれど、こんな愚問にこたえなくていい。訊きたいのなら選手本人にたずねるべきであるし、ヨーロッパ各国のほとんどでこのような質問をする報道人はいない。日本のメディアは年々幼稚化の道を歩んでいる。
 
 愚問はほかにもたくさんあって、いちいち述べるとキリがないので割愛する。メディアの愚問で顕著なのは、どこの国の元首もこたえようのない質問を総理にするということである。コロナ終息はいつごろなどと、質問者は児童か。総理は占い師か。彼の奥方は懲りない野生の山羊、柵を無視して飛び出す。
 
 官僚や政治家の一部、御用学者は、情報公開しなくても国民は随(したが)うだろう、あるいは、そのうち忘れると思っている。要するに甘くみられているのだ。情報公開すれば混乱を招くとする官僚・政治家・専門家もいる。彼らの隠し芸はうわべをかざることである。
厄介なのは、若年独身男女の無警戒や、買物帰りのおばちゃんの混乱をうれしそうに取材するメディアである。冷静な市民の取材だけではおもしろくないのだろう。
 
 安易な若年男女の行動と発言に、同類は仲間意識を感じこそすれ警戒心を抱くことはなく、自分の行動を見直すこともないだろう。警戒心や自粛が自分を守るということも結局、経験してみないと彼らはわからない。ノーテンキとはそういうことだ。しかし大事がおきたときうろたえ、真っ先に悲鳴をあげるのは彼らである。
 
 中高年の一部は傲岸不遜である。タカをくくって唯我独尊、何が気にくわないのか反発心が強い。オレさまの世界をつくって譲ろうとしない。若者より始末に負えない。
 
 官僚・政治家・メディア、そして国民の一部は事が大きくなることを好まず、できるだけ穏便にすませようと思う。穏便におさめるのはまだしも、事を曖昧にし、うやむやにする性癖はいかんともしがたい。そういう傾向は外交におよぶこともあり、ヨーロッパ諸国から軽くみられている。
 
 
 英国の情報発信のはやさはおそらく世界一。情報公開を遅らせるのは恥であるという意識が強い。世論形成も、政治家の対応も迅速だ。英国にかぎったことではなく、ヨーロッパ先進国に較べて、「隠し味」と「実は‥」の国・日本はそういう意味においても「おとな」ではない。
 
 囲われている牧畜牛が、隣接する牧草地のフェンスが開くと移ろうとすることから、「隣の芝生は青い(緑)」=Grass is always greener (on the) other side=なることわざが生まれた。ウシの動きが人間にも適用される英国とは異なり、適用不要のウシの国か、日本は。
 
 先日(2020年2月21日)某局で英国のペナイン山脈のスパイン=「背骨または尾根」の意=を南から北へ縦断する「スパインレース」(放送名はグレートレース)をやっていた。
スパインレースは「The Pennine Way National Trail」268マイル(約429キロ)を7日以内に走破しないと失格。真冬、最低でも1日平均60キロ強を移動する過酷なレース。グレートレースと名のつくものはさまざまみてきたが、スパインレースは別格だ。
 
 終了35分前(110分の番組)、みるのをやめて寝た。ランナーの進む場所は見なれた光景である。地道の多くはぬかるみ、すべりやすい坂道に足をとられ、滑ってころぶ。急流も渉らねばならない。睡眠はわずか。チェックポイント(C1〜C5の5ヶ所)でうかうか眠っていると先を越される。自分も走っている気分になり、へとへと。グレートレースをみてこんなに疲れたのも初めて。
 
 英国へ通いつづけ、レースのスタート地ピークディストリクトの人口約350人の小さな村イーデルをレンタカーで通過したけれど、スパインレースの名を知らずに過ごしていた。まして起点となるイーデル村のビレッジホールの名は初めて知った。スパインレース終点はスコットランド南部のカーク・イェホルム、人口590人の小さな村。
 
 レース途上には心に残るヨークシャー・デイルの殺伐たる風景や、ペナイン山脈北部にハドリアン・ウォールといったローマ時代のすばらしい遺跡もあり、見過ごせない番組。
ハドリアヌスの長城とも呼ばれるウォールは全長117キロにおよぶ壁、塔、城砦の総称で世界遺産に指定されているが、レース総距離429キロに較べれば短いではないか。
 
 2018年までのレースタイム記録は95時間ほどだった。2019年、記録を12時間短縮するランナーがあらわれた。83時間12分23秒の新記録で優勝したのはジャスミン・パリス、女性35歳。
チェックポイントで14ヶ月の娘に授乳しながらレースをつづけた。2位の選手は16キロの差をつけられたという。あるブログによると、「母乳は搾乳して冷凍していたが、乳腺炎や胸のはれを防ぐためレース途中で搾乳した」そうだ。
 
 レース出場にそなえるトレーニングでタイヘンだったのは、出産後の難局をかかえながら、短時間睡眠にたえて練習時間を確保することだった。本番の睡眠時間は短時間どころか、ないに等しい。
 
 本年(2020)の優勝者はロンドン在住の米国人ジョン・ケリー、タイムは87時間53分57秒だった。夏にも同レース(スパイン・フュージョン)がおこなわれるというが、タイムは冬に較べるとかなり速い。季節によって走行タイムに差がでるのは当然。
 
 ジョン・ケリーは勝者インタビューで「限界を感じるたびに完走をめざす。自分を見直すことができる。身体のあちこちが痛い。やっと座れた」と語る。
「みんなが待っているから早く帰ってきた」と2位の男性は言い、5位サブリナ(女性)は、「レース完走後ケーキを食べたかった。レースは終わったけれど人生が終わったわけじゃない」と語った。参加者156名のうち完走は63名。
                (ケーキを食べるのも人生のうちという意味で彼女は言っている)
 
 英国人ならではのものいいである。「やっと座れた」といういい方だけは、米国人がロンドン生活で英国流を身につけたことの証明かもしれない。それにしても、日本人が決して発さないコメントにユーモアがあふれている。表現力はこんなにも差があるのか。
 
 2019年1月中旬、スパインレースを圧倒的なタイムで優勝したジャスミン・パリスのコメントはこうである。
「完走したら娘が待っています」。「ゴールしたとき娘は不機嫌でした。ママはまたいなくなるんだねという顔をしていました」。成人し母親と同じくらい強いおとなになるかどうかはわからないとして、ステキなおとなになるだろう。
 
 ジャスミン・パリスをみて思い出したのは、1973年インドへ行き、仲間からタフさを称賛され、「鉄人28号」と呼ばれたMさんである。Mさんがベナレスから送ってきた手紙にそう書いてあった。母親ではなく娘の顔が、満1歳の大きな瞳のMさんの写真にどこか似ていた。
 
 英国にとらわれて21年。思い出すと胸がいっぱいになる。
 
 
          冬のヨークシャー・デイル


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