2020/04/28    伯母のタラの芽

小高い山は久松山(きゅうしょうざん)。山頂に鳥取城本丸があった。中央の洋館は仁風閣。
 
 
 中庭にサクラの古木があり、2階の縁側窓に当たる寸前まで枝がのびている。2階客間の格子つき出窓を開けると花びらが舞いこみ、くれなずむ夕暮に黒いマントが降りるまでながめていたことがある。
 
 従兄の家は鳥取城跡の堀をわたってすぐのところ(鳥取市東町)にあった。県立鳥取西高校(画像右)へ徒歩3分の至近距離だが、バスケット部に入っていたから登校まぎわまで寝坊することはなく、本人も朝は強いけれど夜は弱いと言い、そのとおりだった。
 
 小生の父の墓は鳥取駅から徒歩10分ほどの寺にあり、墓参りのたびに従兄の母、つまり小生の伯母(母方)が供花を持参した。あれほど見事な供花は稀少で、私たち遺族(墓参は主に母と小生)は誇らしかった。
 
 伯母の嫁ぎ先は鳥取の旧家で、夫(従兄の父親)は鳥取県庁につとめていた。ストイックというか、旧弊というか、小生の実家を敬遠した理由がいまだにわからない。さいわい、がっしりした体格の伯母は相手をえり好みするタイプではなかったし、性格円満で、気配りを感じさせない気配りの達人だった。
 
 もうひとりの伯母はこどものころ吉川家の養女となり、その後の経緯は定かではないが、最初の結婚がうまくいかず離婚、米子で暮らすようになって後、鳥取市円護寺の吉川経家墓所へは鳥取の伯母がお詣りすることになる。円護寺は久松山の裏手にあり、山越えしなくても迂回路はあり、その道を鳥取の伯母は歩いた。健脚なのである。
 
 久松山が見えると鳥取に来たという実感がわいてくる。鳥取城二の丸跡や堀端に咲くサクラはことのほか見事で、墓参りにかこつけて訪問するのが愉しかった。田舎料理の好きな小生は伯母の煮物を好んで食べ、ワカサギやキスの天ぷらも美味だった。
玄米を炒り、煮つめた黒砂糖、水飴でからめる伯母の自家製菓子「おいり」は、ポンポン菓子よりかたかったが、独特の香ばしさと風味があり、忘れられない味である。冬は濃厚な甘さのつるし柿を送ってくれた。
 
 いつだったか、花見と墓参りをかねて鳥取へ行った翌朝、従兄が「タラの芽狩りに行くけど、(久松山への)直進道は登りがきついので沿道を歩く」と言った。
久松山の標高は263メートルだが、直進道の急勾配は地元でも有名。春、タラノキが自生する場所へ行ったことはあっても、沿道から入る場合、どこから林に入ってよいのか伯母しか知らないので先導してもらうという。
 
 曲がりくねった道を歩くのであるが、足に自信のある小生でも伯母についていくのが精一杯、カーブの手前で伯母のすがたが見えなくなり、このまま頂上をめざせば100メートルは置いていかれるかと思えた。中腹にさしかかったころ伯母が道から逸れて林のなかに入った。
従兄は、「もうすこし登ったところに(伯母は)出てくるから、そこまで」と言い、すたすたと歩きつづける。歩きはじめたときのひんやりした空気は一変したかのように汗が噴きだしたけれど、従兄は涼しい顔をしている。
 
 それから何分歩いたろうか、バテ気味だったので長いと感じたのかもしれない。従兄が立ちどまった沿道の横の木々の陰から突然伯母が出てきた。わらで編んだ籠にタラの芽がいっぱい入っていた。
 
 昭和57年か58年の春、小生は30代前半、伯母は60代前半だった。
それまでタラの木を見たことがなく、タラの芽がタラの木の新芽であることも知らず、枝に細かいトゲがあり、うっかりすると刺さってしまうことも知らなかった。藪と低木が行く手を阻み、かきわけ押しわけて進むうちに自分がどこにいるかわからなくなるという。獣も通らない場所なのだ。
 
 その日の夕刻、伯母の家の2階でタラの芽の天ぷらを食べた。サクラの花びらが中庭に舞っていた。その前も後も、あんなにおいしいタラの芽を食べたことがない。
 
 伯母は平成9年1月初旬に亡くなった。にわかのドカ雪で中国道が速度規制され、菩提寺の葬儀の刻限に間に合わず、たどり着いたとき、従兄や縁者は菩提寺の境内にある墓地にいた。粉雪が舞って凍えるほど寒い日だった。
 
 精進あげはその日、菩提寺の大広間でおこなわれ、従兄は酒を注ぎに回っていた。小生のところへ来たとき従兄は言った。「間に合わなかったね」と。目はおだやかだったが、さすがに気落ちしていた。こういうときにこそ話さねばならない。
 
 三千院へ向かう道中、昼食のため立ち寄った精進料理店での話。車を降りた途端、雨が落ちてきて、日舞の若師匠(男性)は靴を脱ぎ、小脇にかかえて料理店玄関へ向かう。
靴の本店はチューリッヒにある。私たちが香港のペニンシュラホテル内の支店でおそろいで買ったキッド(子ヤギ)のモカシン(スリッポン)。軽くてはきごこち抜群なのだった。私たちは靴店のマネージャーと親しくなり、香港へ行けば靴を買っていた。
 
 精進料理店の座敷で食事をすませたあと、従兄がごろりと横になった矢先、そばに座っていた若師匠はすこしだけ尻を浮かした。不吉な予感がして従兄はとっさに離れようと思ったらしい。そこへ一発お見舞いされたのだ。
小生はその場にいなかった。従兄から聞いた話である。思わず叫んだ従兄に若師匠は言ったそうな。「あら、そこにいらしたの」。
 
 あの日に帰った従兄は破顔一笑、香港と若師匠の思い出話に花吹雪が舞う。Mデパート香港支店のセーター売り場に行くと従兄がセーターを見て、どれにしようか迷っている。横に並んだ小生に気づいていない。そのときも結局、ふたりは同じ色柄を買った。
夜、日本料理店で懐石料理を食べて、最後に天ぷらそばを食べるのが恒例となっていた。薄衣のカラッと揚がった車エビの天ぷらが4つ入っていて、そばもダシも美味。
 
 従兄の目はかがやき、香港の話が佳境に入ると目が潤み、酒をついでもくれなかった。周囲の人々は異様なものを感じたかもしれない。5分くらいかと思ったけれど、20分以上たっていたろう。従兄の姉がたまらず呼びにきた。
 
 それから8年半後の平成17年9月、従兄も亡くなった。58歳だった。伴侶のほかに心を分かちあえる人はみな泉下に眠っている。懐かしさが押しよせどうしようもない。
 

前のページ 目次 次のページ