2020/05/13    父の肖像
 
 懐かしい思い出は生涯に3度ある。子どものころ、恋人、伴侶との思い出だ。伴侶とは度々お互いの祖父母について語り合った。伴侶と同時代を生きてきたので、語れば情景を共有できる。家族が生きていようがいまいが、語ることによってあのころに帰るのだ。
 
 過ぎされば夢のごとしである。祖父母(父方)も両親も健在だった。宮崎県に疎開していた父方の祖父母は、父が新居を建てた昭和26年に私たちと同居する。昭和18年9月10日、鳥取市中心部を襲った大地震で自宅は半壊、祖母方の親戚(宮崎の農家)に避難したのだが、昭和21年になって鳥取県倉吉に転居している。
 
 父は陸軍将校として中国に出征しており、鳥取地震を予言し、毎日新聞で報道された母のことは知らない。17歳だった母の居宅には早朝から長蛇の列ができた。昭和56年ごろ、当時女学校の教師だった鳥取市の老女が、縄を幾重にも巻いたようなとジェスチャーをまじえて昨日のことのごとく語ってくれた。
新聞を読み、戦争に行った息子や夫、兄弟などの安否を知りたくて大勢の人が押しよせたのである。なかには病気が治るかどうかを聞きたくて来た人もいたという。
 
 終戦後帰還した父は元の勤務先S銀行鳥取支店にもどったのかどうか不明。昭和22年に母と知り合い、母の弁当攻撃にほだされ、同年婚姻届を出した。料理などする気のない母がつくったとは思えない。母の住んでいた鳥取の家には使用人がいた。弁当もその人がこしらえたにちがいない。
 
 子どものころ、わが家の食事は小学校4年の夏までは祖母(昭和33年死去)がつくり、その後はとっかえひっかえ、住み込みや日帰りのお手伝いさんがつくった。母が台所に立つのを見たのは数回だけ、おふくろの味を知らない。伴侶と暮らして、伴侶の料理がおふくろの味になった。
 
 小学生のころまで扁桃腺が弱く、発熱すると38度以上になるのが常で、バスや車の排気のにおいに負けて車酔いすることも度々だった。高熱を出し意識が朦朧とする夜中、目をさますとやさしい顔の父がいた。安心したのか、子どもはまた眠りに落ちた。
看病するのはいつも父だった。母は何をしていたのか見当もつかない。父のよろこびは子どもたち(小生には妹と弟がいた)を連れて泊まりがけの旅行に出ることだった。父の旅好きを色濃く継承したのは長男である。クラシック音楽好き、カメラ好きも引き継いだ。
 
 1968年11月、父が48歳で急死したとき、19歳の小生は父の足に、目に、耳になって父の夢をかなえようと決心し、強烈に惹かれた女性(「幕間・Short Stories」の「3日間の恋」)との束の間の恋を終わらせ、旅の写真を撮りまくった。初めてドイツを旅した1969年8月、父がレコードでしか聴かなかったクラシック演奏会に行った。旅行中いたるところで父を感じた。見ているか、聴いているかと問いかけた。
 
 母と対立した1995年、鳥取の父の墓前に立ったらば、「お母さんと喧嘩するな」と父の声がきこえた。それでも仲直りする気持ちはわいてこなかった。母をかばう父を疎ましく思った。
 
 父の話をするときの伴侶の常套句は、「お父さんは二枚目だったのに」。父には似ず、母親に似てしまったのだ。伴侶は昭和43年、高校1年の夏休みに小生の実家の玄関先で一度父に会っている。「いらっしゃい」、「こんにちは」だけだったという。
 
 伴侶と会うようになったのは昭和49年夏ごろ、人混みも祝祭日も観光シーズンも避け、上賀茂、西賀茂、嵯峨野、奥嵯峨、栂尾を歩いた。肉眼で見るよりファインダーを通して見る時間のほうが多かったのではないだろうかと思えるほど写真撮影に没頭した。お互い結婚は考えていなかった。
 
 共通点が多く、価値観も似ており、楽しい時を過ごすだけで十分だった。ファインダーから見る伴侶の美しさは日を追うごとに、撮影を重ねるごとに増し、愁いを帯びていった。
学生時代に勝るとも劣らない時間を持てるとは思いもよらなかった。父が魔法の粉をふりかけてくれたのだ。「それが間違いのもと」、伴侶の声がきこえてくる。
 
 女優をやっていた古くからの友が何かの話のおり、「サンドイッチのきみ」と言った。橿原神宮へ行ったとき伴侶はサンドイッチをつくり、それを女優に話したような記憶がある。女優と伴侶は北海道や香港などの旅を共にする。
 
 女優の結婚披露宴に伴侶と招待された。「行く?」とたずねたら快く「行く」と言ってくれた。新郎の兄は森繁久弥に「旦那」と呼ばれる俳優である。父は小生ほどの映画好きではなかったが、森繁や三木のり平が出席するならわるくない、旅とコンサートのほかにおまけもあるのかと言うだろう。
 
 昭和56年11月、岳父がガンに罹り(岳父には未告知)、余命半年ということになって、伴侶の母親に対して発言力の強かった既婚の出しゃばり長女(中学時代の同級生)が結婚をクチにし、伴侶の家族は異議を唱えず、伴侶も小生も複雑な心境のまま流れに乗った。
式までわずか10日。案内状を出す時間もなく電話連絡。小生の友人で披露宴に出席してくれたのは日舞の若師匠と四国の後輩だけ。後日、後輩は言ったものである、「奥さんの妊娠で急がせたかと思いました」。
 
 よかったなと喜んでくれた岳父は昭和58年6月、60歳で他界。慶事も弔事も急で、父も岳父も短命だった。せめて70まで生きていればと思うが、寿命はどうしようもない。
 
 父は学生時代に野球部で捕手をやり、行員時代はテニスをやった。父の死後、アルバムを整理したら当時の写真が出てきた。そのころも人なつっこく明るい顔をして写っていた。父とキャッチボールしている写真もあり、父がキャッチャーで、一丁前にバッターボックスで構える弟の写真もあった。弟が5歳くらいだから9歳だろう。
 
 父の死から半世紀以上、父より23年も余分に生きている。十分すぎるほど生き、過去の幽囚である。眠りにおちる前、返ってこないボールを投げる。記憶は魂の記録だ。幽囚の番人よ、過去を忘れさせよ、さもなくば私を忘れよ。
        
                    
                 1951年


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