2020/05/29    家族の肖像

                 三千院拝観時の駐車場で 左は妹(27) 右は伴侶(25) 昭和53年1月
 
 
 昭和49年8月、独身時代の伴侶と西賀茂の正伝寺へ行ったのを皮切りに、会うのは京都が多く、日帰りなのだが撮影旅行のカメラマンのように写真を撮った。当時の写真を管理しているのは伴侶。忘れたころにアルバムを出しては見ている。たいていは自分の部屋で見るから小生は知らない、時々見せにくる。
 
 小生の妹は、兄がどのような女性と交際しているか関心を示さなかった。デートのたびに重いカメラバッグをかついで帰宅するのを不審に思ったのだろう、「どこ行ってるの」とたずねた。
「京都」とこたえると、「ふ〜ん」と興味なさそうにつぶやく。京阪神に住むわれわれにとって京都は遠足の目的地のひとつであり、めずらしくもない、いつでも行ける場所。
 
 それから2年くらいたって、伴侶とあいかわらず京都へ行っていたので益々不審に思ったのだろう、年の瀬になって「そのうち連れてって」と言う。「だめ」と返事したら、彼女に聞いてみてと念を押す。
当然「ダメ」と言うはずと聞いてみたら、一緒に行こうと言うのだ。「でしょう、そう言うと思った。そういう人なの、顔に書いてある。」。顔に書いてあるは兄の口癖。
 
 年が明けてまもなく妹と京都へ行かざるをえなくなったのは、道東から来た兄妹の妹さん(20)を京都に案内してくれと母に頼まれたからである。初対面の20歳をもてあまさないためには、えり好みせず温かく迎えて話相手をする伴侶の同行は必須。妹に運転を任せれば一石二鳥。
 
 で、とどのつまりは上の写真。棚から宙づりになっている蛇の目傘の赤が眼にとまった。ピンクの上っぱりは邪魔になるねと妹は言ったが、持ったまま撮って正解。庶民的な雰囲気が出ている。妹と伴侶は些細なことで喜ぶ。その点も庶民的。
 
 以前、伴侶をうまく撮るため予行演習として旅先の山口県で妹を撮影した。撮られ慣れていない妹の表情、ポーズがなぜか写真になる。どのように写るのか、できあがりを知っているかのように。
 
 母の家がある阪急電鉄宝恊「山本駅」近くの踏切・線路上で撮った写真はサマになっていた。踏切を通過後、妹が運転していた車を停めてもらい、撮影しようと言った。快く応じ、にっこり笑ってアゴのあたりに手をやり、じゃんけんのチョキを横向きにした。
 
 その後も3人は行動を共にしているのだけれど、後年ほかの人々とも頻繁に上洛し、どこを回ったのか記憶がさまよい、伴侶と暮らすようになってファミリーで行った詩仙堂、円通寺、料亭(京大和、下鴨茶寮、嵐山嵐亭)は思い出すが、そのほかの場所や名称はあやふや。料亭で働いていた人や一緒に食事した人はおぼえている。
 
 小生は洋食を好まず、伴侶も和食好き。妹はぶつぶつ言いながら、そのうち日本料理好きになった。しょっちゅう外食を共にしていなければ、妹はコロッケや海老フライばかり食べていたかもしれず、田舎料理を、特に煮物をおいしそうに食べる兄を変人と思ったろう。寅年の妹と辰年の伴侶はどこへ行っても楽しそうに語らい、カメラのシャッター音も軽やかだった。
 
 妹、伴侶、小生は率直な性格、理屈を言わない。理屈や講釈を垂れる人間は、経験に基づくことを話さないので、前に垂れた講釈を忘れてまた講釈する。
 
 「心は傷ついてもクチは傷つかない。食べられなくなったら、話せなくなったらおしまい」と妹は言っていた。あのときこうだった、ああだったと何度も話すと記憶が定着する。
こっちが忘れたことをあっちがおぼえている。昔話をしてもたねが尽きない。同じ話をしてもまたこの話かと思うこともなく、お互い会話に興じるので密度が濃くなり、懐かしさを共有する。40代前半までに30年分を追懐した。
 
 話題にならなかったことの細部を思い出すには記憶の断片が残っていないと難しい。断片をつなぎ合わせようと虚空をみつめ、必死こいて集中し、拾い集める。よみがえったらまたひとつという具合。
よみがえらない記憶を誰かがおぼえており、思いがけなく知らせてくれて思い出すこともある。そして別の記憶がよみがえる。
 
 いつだったか、3人のなかで一番早くボケるのは誰という話をしたとき、小生は妹であると言った。ボケた紋別の伯父と同じくらい思い込みが強いとボケやすいと思えるからだが、それ自体が思い込み。伴侶は小生が最も早いという意見。兄を見て笑う妹の顔にもそう書いてあった。
 
 子どもを産むのが遅かった妹は30代半ば狭心症にかかった。3人で談笑しているさなか突然発作に襲われ、救急車で病院にはこばれたことが2度ある。
幼児は火がついたように泣き叫んだ。伴侶が抱きかかえ、懸命にあやしても泣きやむ気配はなかった。30分以上たってようやく泣きやんだ。伴侶は平気な顔をしていたが、双方ともひどく疲れたと思う。
 
 何度、入退院をくりかえしただろう。運転のうまかった妹は晩年、自宅への上り坂の側溝に脱輪したらしい。信じられなかった。運転できる状態でないのにムリをした。病気が追い込んだのだ。加齢と病気で耄碌したいまならよくわかる。
 
 病院へ見舞いにいったとき、ぽつんと言った。「時間って大切だね。病気に使いたくない」。
 
 香港ペニンシュラ・ホテルで胸の痛みを訴え、苦しそうにしていた。「だいじょうぶ」と言う妹が痛々しかった。妹の子は心配して青ざめている。大山寺の駐車場でも妹は発作をおこした。そのとき子も高熱が出て、米子市内の病院で診察を受けたら髄膜炎だった。医者は、受診が遅れたら危なかったと言ったそうだ。
 
 12月のある日、妹は体調が悪化し入院した。数日後の朝、看護士が検温にきたとき妹は冷たくなっていた。
道を歩いていると妹が視界にはいってきて、呆然としている兄に、「楽しかったね」と告げる。「お兄ちゃんは特別だから」と言われてジーンとくる。妹はいつまでたっても20代のままである。
 

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