2020/06/10    ガリヴァーと麦わら帽子
 
 大阪府立北野高校2年9組は秋の体育祭を間近にひかえ、(2年生全12クラス参加)仮装行列でガリヴァー(第一篇「リリパット国」)をやろうということになった。巨大なガリヴァーは木と竹で組んだ紙の張りぼて。
なかに足場をこしらえ、数人が背中の扉から入って、仕掛けた道具を動かす。ガリヴァーは車輪付き台車に固定する。まるで祇園祭の山鉾。案を練り設計したのは理系男子。中心になったのはふとっちょの高井とやせっぽちの岡、陽気な山本。
 
 運営委員女子に「やってくれませんか、王子」と声をかけられた。「メガネかけてる」と言ったが、「はずしてもらいます」。「顔も体格も向いてない」と言うと、「イメージ描いて衣裳の色柄、デザイン決めた、生地も買った」とすかされた。
 
 「採寸するからじっとして」とメジャーをあてはじめる。衣裳のズボンは膝から上がフワ〜とふくらみ、太い黒と細い金のストライプ。黄色いハイソックス。
ジャケットは水色で、中央部分に銀色の別生地を縦に縫い込み、数カ所フックを付けるらしい。首は「ひだ襟」。上衣は肩バッドと裏地、ズボンは腰裏地がつく。帽子は少年王エドワード6世ふう。靴もつくるからサイズを教える。
 
 30代になって別誂えのスーツやシャツをつくりはじめたけれど、あれほど豆に採寸されなかったのではないだろうか。女子ふたりがかりで首回り、肩幅、胸回り、胴回り、腰回り、着丈、袖丈、アームホール、手首回り、そして太腿、股下も計った。
採寸のひとりは山城さん。衣裳係は4人。「王子の衣裳は手間かかる。奴隷みたいな村人は楽」、「王の衣裳はローブ。高井君はアレだから適当」と言った女子はだれとだれだったか。
 
 サッカー部の田畑と原は村人だった。やさしい目をした田畑はギリシャの哲人のような風貌。原は目がくりっとして、濃い太眉毛。ラグビー部の西村も、水泳部の犬島も、枚数の多すぎる世界史のテストで驚異的な点をとっていた岩上も村人。ガリヴァーを引くのは、がっしりした身体、彫りが深く鼻の高い彼ら。
 
 王子と姫の衣裳は型紙をおこして仮縫いつきの手縫い。ほかの衣裳はミシン縫い。当時の重い足踏みミシンは教室に持ちこめず、女子が手分けして帰宅後や日曜に家のミシンで縫う。
王の従者や女騎士が持つ槍、剣、盾、弓矢、鎧兜、村人の鍬鋤は男女共同でつくり、ガリヴァーは男子が屋外で製造。女騎士・広橋さんは背が高く、形のきれいな足は長く、剣をさし、盾を持つ姿が堂々として絵になった。
 
 北野高校は定時制もあり、校舎は夜おそくまで使うことができた。予習もへったくれもない、中間テスト終了後で帰る者はいなかった。自分の作業がすんでも、ほかの製作過程を見たかったのだ。おそいときは10時過ぎまで。紙貼りは全員(男子30数名女子10数名)が手伝った。
 
 衣裳係の名前を思い出した。山城さんのほかに青山さん、安藤さん、大西さん。王子と並んで歩く姫は山城さんではなく、山城さんは召使い。王子と召使いの関係は意味深長と意味不明なことを女子が言っていた。仮装行列行進中、村人が踊り出し、そこまでは打ち合わせずみだった。
 
 王子のうしろにいる召使いが手をとり促す。王子の知らない即興、リハーサルなしのぶっつけ本番。戸惑う時間はなかった。山城さんにつられてステップを合わせる。
召使いが王子の腰に手をあて、当方も召使いの腰に手を回し、前後して身体をターン。まるでタンゴとコサックダンスのチャンポン。えい、やっという感じの召使いの勢いによろけて足を踏みかけた。これが効き、見学者はどよめいた。
 
 小生をウォーキング・ディクショナリーと呼ぶまじめな河野からヒントを得たのだろうか、歩く王子は稽古なしでピエロもやれると踏んだ女子がいる。
 
 親しかったテニス部の女子に聞いても(演出は)「山城さんじゃないよ」だけ。衣裳係と女子数名以外に誰なのか知らず、知る者は秘匿した。「二枚目が三枚目やるからおもしろい」と言ったらば謎めいた笑み。「三枚目が二枚目やるから滑稽」と彼女の顔に書いてあった。
テニスコートの彼女を見ているという哲学者田畑が「セクシーだ」と洩らした。164センチ、肩幅が広く、焦茶色コーデュロイのミニスカートが似合う、めったに笑わない女子。色気は記憶にとどまる。
 
 体育祭のフィナーレ仮装行列はグランドを2周する。教師たちのいるテント前を通りかかったときガリヴァーの目がぱちぱち開閉し、右手は「にぎにぎ」した。テントは爆笑。
にぎにぎのモデルは英作文の小西先生、通称コニカン。彼の授業は淀川長治ふう「にぎにぎ」で終わるのがトレードマーク。横目でコニカンの顔を探すと笑いがおさまらないふうだった。
 
 仮装行列は9組が優勝。北野高校1年生の小生の妹が見ていた。伴侶の姉(中学高校が同窓)も見ており、その夜、「ガリヴァー見せたかった」と語ったらしい。
伴侶の実家は北野高校正門(ほとんど利用されない)のそばにあり、名物の仮装行列を毎年見にいったらしい。伴侶はそのころ中学(新北野中学校)の卓球部で放課後猛練習。
 
 体育祭の片づけの終わった夜、ガリヴァーはグランドで燃やされた。燃えさかる炎が村人の瞳に映っていた。定時制の生徒や付近の住民が火のまわりに集まってくる。夜は深まっていった。
 
 記念にもらった衣裳は小生の手元にあったが、いつのまにか行方知れず。もともとわずかしかない高校のアルバムは紛失、もしくは投棄し、残ったのは下の写真1枚。
1987年3月、バレンシア火祭りでファジャス(張りぼての大人形)のガリヴァーに再会した。深夜、めらめら燃えるガリヴァーを見て記憶がよみがえり、そして遠のいた。
 
 
 犬島満は水泳の種目でバタフライが得意。速かった。親しくなったのは大学生になってからで、東京、磐田(静岡県)はすぐ会える距離ではなかったが、1970年春に互いの帰省地京阪神で会ってから交流するようになり、大阪で会うとき、京都工繊大へ行った西村もいた。
犬島の下宿は農家の離れで、広い座敷がふたつと小部屋ひとつ、プロパンガス用の古いガス器具やカマドもあり、トイレは外だったが、五右衛門風呂もあった。畑と池、地道があって、主屋と離れ、数本の木のほかにさえぎるものなし。ロケーションと夜の静寂は最高、熟睡した。
 
 メシ屋までは遠いから自炊もやっており、メシ炊きがうまくなったとカマドを使ってメシを炊いた。おかずをつくるのが面倒なときは、(静岡名産)わさび漬けでメシを食うこともあるという。
マキは離れのわきに積んであり、自由に使ってくれと大家は言うけど、時々マキ割りをする、やってみるかと言われてやった。足を切りそうで見てられないと交代、慣れた手つきでマキを割る。
 
 これならメシ炊きもうまいだろうと食ったら、水加減をまちがえたのかメシがすこし硬い。自分でも硬いと思ったのだろう、炊き直すという。それからどうなったか思い出せない。大家の奥さんが煮物や揚げ物を差し入れてくださったことも何度かある。
 
 昼間、農家近くのすり鉢状台地の下にある池で釣りをしていたら、サイレンを鳴らした消防車が通りかかり、、えらい剣幕で車をどけなさいと言う。小生の車が邪魔して消防車が通れない。
訓練かと思ったが、犬島の農学部校舎だったか学寮だったかが燃えている。おもしろいほど釣れる小魚に気をとられ気づかなかった。遠くの花火みたいだと太公望の犬島が言う。
 
 夏が来て、犬島と北陸へ行こうということになった。3泊4日、国鉄周遊券の旅。ここだけは寄ってみたい場所に彼は永平寺と立山弥陀ヶ原を挙げる。五合目までバスが行っているらしい。宿泊は温泉。小生はどこを希望したかおぼえていない。
行ったのは、ほかに東尋坊、芦原温泉、片山津温泉、小松、宇奈月温泉など。お盆過ぎて、元水泳部選手の犬島が「やめたほうが‥」と言うのを尻目に、小松あたりの高波を数百メートル沖まで泳いだ。
 
 海へ案内してくれたのは小松の友人。犬島が言ったそうな、「水泳の時間、イノウエは見学してた」。王子は見学する。犬島は麦わら帽子をかぶっていた。これがぜんぜん似合わない。カンカン帽のような帽子ではなく、頭部のてっぺんが丸い農作業の麦わら帽子。ゴム製の細い首紐がついている。
 
 「大家にもらった」と言う。頭にしっくりきて、かぶり心地がよいらしい。よほど気に入ったのだろう、旅から帰ってもかぶっていた。小柄な西村がどれどれという感じでかぶったら、ほんものの村人のようだった。
 
 みな散り散りになり、感慨にふけるのはガリヴァーと麦わら帽、犬島と西村と田畑、召使い、騎士だけとなってしまった。犬島との交流が途絶えて何年たったろう、60代にさしかかって思った。彼は私自身をさらけだせる唯一の友だった。甘えることができた。心のなかでそういう友を求めていると気づかず、気づかせないまま彼はうけいれたのかもしれない。
 
 持って帰れと新品のわさび漬けを持たせてくれた。50年前(1970)の味は15年くらい維持され、静岡のわさび漬けはちがうと伴侶がつぶやくたびに犬島の顔がうかんだ。懐かしさでいっぱいである。
 
 
 
昭和41年(1966)11月2日 体育祭翌月、クラス単位の遠足。大阪府池田市 五月山展望台。 前列左から大西、山城、井上、青山。
後列左から広橋、伊沢。離れているのは富永(敬称略)。仮装行列のメンバー。男子の制服は黒、女子は紺。日付のみ写真裏に。


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