2020/06/14    香港夜繪(やかい)

         1983年10月中旬の夜 香港島・某ホテルのバー 左から妹(33)、伴侶(31)、Kさん(36)、元女優(34)
 
 
 香港2日目朝食後9時半、ホテルのロビーで待ち合わせた30代前半〜60歳の男女20数名は、7台のチャーター車に分乗し、レパルス・ベイやトップ・オブ・ザ・ピークを見学した。ヴィクトリア・ピークから先端のトップ・オブ・ザ・ピークまで徒歩15分、道が狭隘なので普通車しか入れず、ツアー客はまず行かない。
 
 1980年代、頻繁に香港へ行った。5月、10月は行事のあいまをぬって多いときは20数名、少ないときでも10名前後で行った。レストランはおおむね同じ。夕食は広東料理か日本料理。
同じところへ行って飽きないのかといえばまったく飽きない。中国へ返還される前の古き良き時代の香港は自由で活気にあふれ、腕のいい料理人がいた。
 
 上の画像の男性は「書き句け庫」2018年10月26日掲載「きみ知るや古都の日々(1)」に登場した。山辺の道で渋柿を食べ「ギャー」と叫んだKさん。春秋恒例ハイキングで甘樫丘にのぼったあと山辺の道を歩いた。
弁当を開いた途端ぽつぽつきて、彼はカサを首と肩で支え、立ったまま食べた。Kさんの奥方もときおりハイキングに参加する。関西の鉄道会社で電車のダイヤ管理を担当するKさんは、明るく楽しく、おおらかな人。
 
 2日目夜、ホテルのフロントマネージャーAさん(日本人 30)の厚意で26F貴賓室ヴィクトリアルームを私たち20数名が借りきり、シェフ自ら腕をふるう広東料理を食べる会が催され、Aさんも出席。「トリ、だめでしたよね」とAさんは魚介限定とするようシェフに伝えていた。
Aさんとの交流は数年前にはじまった。彼の勤務先ホテルチェーンの親会社(航空)がプライベート・クルーズ船を香港に所有しており、夕方コーズウェイ・ベイ(銅羅湾)の船着場を発ち、アバディーンを案内してもらう。港の市場で選んだ魚介類を調理する海鮮専門料理店での夕食にはAさんの魅力的な奥方も出席。
 
 ヴィクトリアルームは宴たけなわとなり、Aさんが、「えっ? 歌うんですよね」と言う。なんのことはない、集いを盛り上げるためというより自分が歌いたいからカラオケを用意していたのだ。トップバッターKさんの歌も、Aさんの歌も思い出せない。好きなだけでたいしたことはなかったのだろう。
 
 腕だけ写っているHさん(34)ほか主な男(小生も)が、「長崎は今日も雨だった」の「さがし、さがし求めて」の音程を外して歌ったのと、元女優の渋い喉はおぼえている。
香港常連メンバーの鳥取の従兄(37 うすくち手帖2020年4月28日「伯母のタラの芽」)も、人からせがまれてたまに無伴奏の「貝殻節」を切なく歌うが、このときは最後まで食べるのに忙しく歌わなかった。
 
 香港の夜は長い。午後7時半からスタートした一次会で夜は更け、40歳以上は部屋にもどった午後11時ごろ、話したりない者(従兄、Kさん、Hさん、元女優、日舞の若師匠、妹、伴侶)は深夜営業している1Fカフェバーへ。
 
 元女優と伴侶はKさんをはさみ、妹は斜め前、奥方から解放されたKさんを慮(おもんぱか)っての陣取り。彼女らがそれなりの装いをしていたのがさいわいし、夜のクラブに迷いこんだゴルフ帰りとホステス。
私たちが年2回おこなう寸劇のナレーターをつとめる妹は、劇用にと香港の夜店で買ったトリの羽の扇子を宴席に持ってきており、そのままバーに流れこんだのもさいわい。
 
 妹と伴侶はKさんと親しい間柄で、元女優もKさんと何度も会っているのだが、こういう接近のしかたは初めて。
クラブのママ然とした女優がKさんに話しかける。「奥さまとご一緒でなくて残念ですね」。「いやいや、」。「恐妻家ってウソでしょ」。「‥‥‥」。Kさんの恐妻家は有名。知らない者はおらず、知られていると知らないのは本人だけ。恐妻と思われたくないKさん。ワル乗りする女優。
 
 ハーレムの女がスルタンをうちわであおぐようなしぐさを妹がみせたあと、「‥それでね、Kさん」と女優のささやきでカメラを構えた瞬間、女優と伴侶がKさんにしなだれかかり、妹は扇子をせり出す香港夜繪の1枚。
 
 帰国後現像した写真を小生がKさんにわたすとき妹は、「こんなに楽しそうなんだから奥さんに見せようよ」と言い、Kさんが、「アカン、アカン」と常にない口調で色をなした話をだれに話したかおぼえていません。
 

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