2019/12/28    祖母の雑巾
 
 時々思うのは、ふだん使うもののなかで雑巾ほど長年にわたって使いつづけているものはすくないということだ。日用品にしては自己主張もエクスキューズもせずひっそり隠れているが、無理強いは要らない、二つ返事できちんと役だってくれる。
 
 子どものころ雑巾は存在感こそ小間使い以下だったけれど、実用感は戦場を駆けまわる騎士で、玄関上がり口、廊下、台所、縁側など床という床、のみならず畳や雨戸も雑巾で拭いていた。
 
 雑巾はおおむね2種類を用途別に使う。きれいな雑巾、そうでない雑巾。人間のことではない、それを使い分ける。その前に雑巾は店で売っていなかったことを言わねばなりません。
30年ほど前から当たりまえのようにホームセンターで売られている雑巾は、使い捨ての大都会でさえ昭和30年代初めまで雑貨店でも売られておらず、自家製だったのである。
 
 当時もすでにタオル地の雑巾はあった。しかし一般的なタオルは目が粗く、精細な拭き取りにはむいていない。そういう場合は使い古した木綿の手ぬぐいを雑巾としておろす。舞台に上がる役者が土産がわりに配るあの手ぬぐいは昔のまま受け継がれている(はず)。
 
 明治18年(1885)生まれの祖母は手ぬぐいを雑巾におろすとき縁(へり)は入念に縫ったが、大部分はジグザグに粗く縫った。そうするほうがしぼりやすいし、しぼったあとも拭き取りやすいのだ。
廊下と縁側の拭き取りは小学校低学年からやらされた。雑巾がけというような甘っちょろいものではない、四肢の鍛錬とでもいうべきほどのもので、その甲斐あって足腰がじょうぶになった(60過ぎて腰椎を病むまで)。児童訓練は6年つづいた。
 
 雑巾を強くしぼるように祖父から命じられていた。かたくしぼらないと床の汚れは落ちにくい。おかげで握力が強くなった。えらいものである。拭き取るときは面ではなく点で拭き取るよう心がけなさいと祖母は言った。大雑把ではなく丹念に細かく。
 
 特に年末の雑巾がけはたいへんだった。なにがたいへんかといえば、母に恩義を感じている女性たちが手伝いにきて、手も動くがクチもよく動くからだ。「感心だね」とか言うのはまだいい。黙々と励む子どもに、「いつもおとなしいの? 知ってるかい、人見知りする子は雑巾で顔を拭けっていうんだよ」と言うのである。いい気なものだ。
 
 いつだったか祖母が、「昔は、雑巾で顔を拭くと愛嬌が出る」とひとりごとを言っていた。愛嬌は数すくないわたしの取り柄のひとつだったので、常々ふくれっ面をしていた妹に対して洩らしたのだろう。
時々遊びにきていた17歳年上の従妹が言うには、妹は「フグみたいに顔ふくらませて、女がそんな顔するものでないとおじいちゃんに叱られてビービー泣いた」。
 
 手伝いにきた女性は年齢もばらばら、井戸端会議的な話より金持ちの「ざあます」夫人を揶揄することが多く、「ごめん遊ばせ」を「ごめんあそあせ」と言ったり、「上流家庭の会話はちんぷんかんぷん、学者も同じ」とか、「Fちゃん(わたしのこと)、偉くなってもあんな人間になっちゃいけないよ」とハタキのかわりにムダグチを叩いていた。市井の民は芸人の流行語発信基地だ。
 
 
 ある朝20代に見える女性の雑巾のしぼりかたが足りず、水気が多く床が濡れている。これでは床をきれいにみがいたことにはならない。汚れが水で散らばっただけではないか。ほかの女性たちはクチは動いても目が動いていないのか、気づかないふりをしているのか、素通りする。
彼女が去った後ふくという手もあったが、無神経さにたまらず注意した。7歳ほどの年端のいかない子どもの声に一瞬びっくり目をしたが、水滴がはねそうな床とわたしの顔をかわるがわる見て「ごめんあそあせ」と言った。
 
 甘い匂いがして、つきたてのモチのような柔らかで白い肌。赤いチューリップのつぼみから「ごめんあそあせ」が出るとは。おちょくられた子どもは、女性がふつうの容姿であれば声をかけなかったかもしれない。女嫌いの子ども(『書き句け庫2018年12月16日「きみ知るや古都の日々(5)』)は余計なこと言ったばかりにと落胆。
 
 祖母は働き者だった。祖父第一だった。しかし収入がなかったからか、明治の女だからか、文句や愚痴は一切言わなかった。タオルがおりてくると雑巾をつくっていた。バスタオルのような大きく厚手のタオルはなかった。タオル雑巾も使いやすかった。
働き者の祖父母、まじめに仕事していた父、家事はしなかったが働き者の母という家庭に育った子どもは働き者ではない。得意だったのは雑巾がけと、毎年12月28日に玄関先でおこなわれた恒例のもちつきのかけ声くらいである。
 
 実家に出入りしていた若い女のひとりが、「Fちゃん、おばあちゃんを尊敬しているの、わかるよ。結婚するならそういう人がいいね」と言う。戦後生まれの女に明治女の美徳が残っているのかどうか疑わしい。そんなこともわからず4歳か5歳のころ、「おばあちゃんなんか大嫌い、死んでしまえ」と叫んだのは何だったのだろう。
 
 昭和50年代後半、奉仕のため実家に住み込み、料理番を受けもつ老女がいた。業界新聞社・元社長夫人Sさんは明治45年生まれ、個性的でクセもあったがおもしろい人で、「すき焼きにビールを入れれば肉がやわらかくなるだけでなく味もいいですよ」とすすめたが、決して入れなかった。
 
 妹が「Sさん、若いころすごい美人」と話していた。写真をみたらしい。信じられなかったのだが、あるとき写真をみせてもらった。神戸小町といっても言い過ぎではないほどの美形。伴侶に話したら、「明治の女はすばらしいが口癖でしょ、Sさんと一緒になればよかったのに」と笑った。
 
 祖母が亡くなって60年、世の中すっかり変わってしまった。人生100年時代と浮かれたふりをする総理とメディア。欠落したのは雑巾のような元気と適応性。増えたのは知識と情報を得て体験したつもりになっている人間。ホンネを言えば軽くみられるとでも思っているのか、タテマエを羅列したり聞きたくもない講釈をする輩も増えた。
 
 時々生意気というのではなく常に生意気、もしくは冷ややかな、あるいは両方あわせもつ人間が増産され、まわりがそういう者だらけになれば目立たなくなる。そういう時代がくるのだろうか。もうきているのだろうか。
 
 
          画像は「木村伊兵衛の昭和」より抜粋


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