2019/12/05    アフガンと中村哲さん
 
 12月4日、強い衝撃が走った。長年アフガニスタンで活躍していた中村哲さんの銃撃死である。アジアの発展途上国で日本政府の支援をうけず、自らの身体を張ってこれほど長きにわたり尽力した日本人は未曾有だ。
 
 中村さんが関わりをもつきっかけとなったのは、増補版「ペシャワールにて」(中村哲著 石風社 1992年1月20日刊)によると、1978年6月、パキスタン・アフガニスタン国境のヒンドゥ・クシ山脈登山。
キャラバンの途上で村人の診療活動をつづけていた。患者数は日ごとに増え、隊員用の薬品を回すこともできず、ビタミン剤とか仁丹を与えるほかなかったという。
 
 「青年をともなってきた父親が中村さんに懇願した。進行した結核だった。町へ連れていき病院で治療をうけるようにと伝えると、町までのバス代がやっとで、病院で処方箋だけもらってどうしろというのかと言う父親に返す言葉もない。
 
 失明しかけたトラコーマの老婆や、ひと目でらいとわかる村人に、「待ってください」と追いすがられても見捨てざるをえず、村々で歓待されると、一種の後ろめたさはかえって増幅した。」(「ペシャワールにて」の要約)
 
 
 1971年10月、一旅行者の私はラワルピンディから遺跡の町タキシラへ向かっていた。道路をヒツジの群れがふさぎ、群れのなかにまぎれこんでいた少年が振りかえった。どこで買ったのか、誰かにもらったのか、顔からはみ出そうな薄よごれた眼帯をしていた。
それだけのことでも忘れられない。眼帯をしているならまだいい、農村や都市部郊外には重度の眼病で目がただれている子どもいた。直視できなかった。
 
 1978年以降中村さんは機会をみつけては憑かれたようにパキスタンを訪れた。そして5年後、パキスタン北西辺境州に赴任する。それは、「ヒンドゥ・クシ山脈を初めて訪れたときの衝撃の帰結であり、同時に余りの不平等という不条理に対する復讐でもあった」と同書に記している。
 
 1992年春、「ペシャワールにて」を書店でみつけ、内容を拾い読みもせず、いま買って読まなければ絶版になるかもしれないという強迫観念に突き動かされ、万引きでもするように棚からひったくりレジへ向かった。
 
 たいていは帰宅して本の頁を開き、イヌみたいに紙とインクのにおいを嗅いでから読むけれど、あれほど性急に読み、感動したのは学生時代に読んだ「孤島」(J・グルニエ)以来だった。知識とは異なり経験に基づいた固有の生き方、感じ方が如実にあらわれ、豊かで鋭い感性はA・カミュの師グルニエと共通している。
若かったから癒しを求めていなかったけれど、子どものころを思い出す文言がちりばめられ、癒やされた「孤島」。多くの示唆に富み、みなぎる活気に触発された「ペシャワールにて」。
 
 掃いて捨てるほどいるインテリとちがって理屈をこねまわさず、気取らず、ポーズもなく、見たまま感じたままを書く。その後の中村さんの驚異的な偉業と、実直で虚心坦懐な姿勢には敬服するほかない。
険しい崖をよじ登る登山愛好家は、貧しさで行き場を失った人々の目もくらむ果てしない崖をよじ登る救済士となる。
 
 21世紀に入ってときどき中村さんはテレビに登場した。ペシャワールを拠点としつつアフガニスタンの過疎村の農業用水路、井戸の敷設に取り組みはじめた。用水路完成の瞬間を某テレビ局が放送していた。現地民とともに力仕事にいそしむ中村さんがいた。医師をめざしてきたはずが、土木をやるとは思わなかったと笑った。
 
 上の少女とはアフガニスタンのバーミヤンで出会った。重そうな辞書をかかえており、私に話しかけるようにページを開いた。よくはわからないがダーリ語かパシュトゥ語の文字が印刷(手書きということはなかったと思う)されていた。「英語とアラビア語をおぼえるのが好き」と片言の英語をしゃべった。48年も前なのに、遠い彼方の出来事にすぎないのに、記憶の断片がこびりついている。
 
 前掲書の増補版あとがきに中村さんは、「旅行者の目には、以前には考えられなかった交通混雑、新しい建築物、人々の服装の変化、テレビなどのマスメディアの普及が急速な近代化と映るに違いない。しかし、それはこの社会の部分的変化にすぎない。農村や下町に行けば、昔と変わらぬ人々の生活がある。我々の活動も、人々の涙や笑いと共にある。
何をするにしても無数の見えない協力の集積があり、それは決して現地の人々を裏切ることはなかった。我々自身もそれによって慰めを得、破局への不安も包みこみ、忘れてはならぬ何かに気づくことができるに違いない」と書き記している。
 
 バーミヤンの石仏が爆破され、マスードが自爆テロによって殺され、タリバン、アルカイーダがアフガニスタンをわがもの顔で蹂躙した。ISの出現は怒髪天を衝き、ただでさえ高い血圧は、あわや脳血管が切れるくらいまで上がった。
中村さんはことあるごとに「住民じゃない、外から来た傭兵の仕業です」と言い、外国の傭兵に不承々々雇われざるをえなかった住民の苦渋についても語っていた。
 
 「アフガニスタン国民の多くは農家です。農民は干ばつや不作がおきると食べられなくなる。誰が好んで雇われますか。ほかに仕事がないから、食べていくためです。」
他人事ではなかった。食べていけない人間が魂を救済されるとすれば、食べていけるようになることしかないだろう。食べていける人が増えれば争いは減る。灌漑用水路工事はそうしてはじまったのだ。暖衣飽食にどっぷりつかりながら争いをつづけるたわけ者どもは論外である。そう言いたかったのかもしれない。
 
 用水路完成後、周辺の地価は数十倍にはね上がったという。部族長や軍閥が暴利をむさぼるためにつり上げたのだ。政府関係者は手も足もだせないのか。悪辣な輩から賄賂をもらって黙認しているのか。中村さんは果てしない崖をよじ登らざるをえなかった。
 
 中村さんの文章を読みなおし、これ以上怒りを爆発させるなと自分に言いきかせている。不撓不屈の人間愛に満ち、身体を張って、貧しく恵まれない人々に生涯のほとんどを捧げ、尽くした中村さんに思いをはせている。
 

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