2024/02/05    転校
 
 中学2年の2学期まで京阪神の公立中学校に在籍し、中学1年のクラスメート淺見君、大坪君は放課後に空き地でおこなう3人ソフトボールの仲間で、打者、投手、守備(内野と外野兼任)を交代で受けもつ。近所の空き地は縦50メートル、横15メートルほど。バッターひとり守備ひとりで、バッターは原則、1.2塁間のセンター返し。
 
 空き地に助走をつければ飛び越えられるほどの小さな川があり、大きな飛球だとボールは対岸の無人倉庫に当たってはねかえり、川に落ちる。流れが遅いので魚捕獲用の網でボールをすくう。
大坪君は小柄だったけれど大きなあたりを放ち、倉庫上部の一つしかない窓を破ってボールが中に入ることもあり、3回目だったか自分の責任だとボール購入費用を持った。各家にソフトボールは1個しかなかった。
 
 関西大学野球部のピッチャーで阪神タイガース入団が決まった村山実の実家が近く、淺見君が私たちにせがみ3人でサインをもらいに行った。昼前、寝間着で玄関から出て庭に立った村山は不機嫌そうに、「きみらは夏休みやけど、オレに夏休みないのやで」と言った。元々タイガースのファンではなかったが、応援なんかしてやるものかと思った。
 
 淺見君は数学の成績が悪く、数学塾に行けと親から言われ、小生に一緒に行ってくれとせがんだ。教室で何度も言われ根負けし、1ヶ月だけという条件付きで同時入塾。約束どおり1ヶ月でやめた。小生を見る淺見君の目はフーテンの寅さんみたいな上目遣いで、もうすこし付き合ってくれよと言っていた。
 
 数学塾で驚いたことがあった。何組か知らなかったが同じ学校に通う女生徒が塾にいた。彼女の隣の女の子が「ウエムラさん」と呼びかける。
小生と目が合った上村さんは、「来る必要のない人がなぜ」という面持ちだった。前から順繰りに配布されるプリント数枚に戸惑っている淺見君と小生に、「来週までに解答し提出するのよ」とか何とか言って目を伏せた。淺見君は解答できるのか疑問。塾の上村さんはポニーテイルふうに髪を後ろで束ね、よく似合っていた。校内で髪を束ねるのは禁止されていた。
 
 塾帰り、自転車に乗りかける彼女は颯爽とポニーテイルを風になびかせた。きれいな足に初めて興味がわいた。チェック(斜め格子)のスカートから覗く足がまぶしかった。夜がいつもと違う色をしている。
週2回の数学塾のたのしみは、スタイルが良く、殻をむいたゆで卵のようにツルンとした美顔の彼女に会うこと。座敷の教室で目が合うと彼女は目を伏せた。
 
 2年生になって淺見君、大坪君ともクラスが異なり、たまにしか会うこともなく、上村さんと会うことはほぼなかった。会えそうな場所を彼女も小生も避けていたと思う。私たちの世代は人口が多く、12クラスはあったが、中学2年の2学期に転校した大阪市立新北野中学校は1学年26クラス(1クラス約50名)のマンモス校だった。
 
 当時、新北野中学の男子は全員坊主頭にしなければならなかった。転校前、淺見君と大坪君は坊主頭だったけれど、小生は生やしており、夏休み、丸刈りにした。これがぜんぜん似合わない。丸刈りの顔を鏡で見て落胆した。
 
 1年半後、大阪の府立高校に入学し、半年足らずで元通りの髪にもどった。それから2年くらい経った日の午後、地元の商店街を歩いていたら声をあげそうになったが、声をあげたのは自転車に乗った彼女だった。急接近して自転車は止まり、驚き声になったのが恥ずかしかったのか、「井上くん」とつぶやく。
 
 目が合っても伏せない上村さんは以前より上に髪を束ね、すっかりポニーテイルになっていた。お互い私服だったが、彼女の着ていた服はおぼえていない。ツルンとしてきれいな顔だった。身体が発散するのだろう、いい匂いがただよう。
それが上村さんと会った最後だった。転校後、思いもかけず出会ったことによって彼女のすがたと匂いが記憶にとどまったのかもしれない。58年が過ぎ去っても上村さんは10代半ばのままである。

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