2023/10/01    紋別の人たち
 
 その子が3歳〜8歳のころ、昭和の終わりごろから平成初めにかけて1年に3回か4回紋別へ行った。
 
 時には伴侶も同行した。女児の母親の実家は茶と陶磁器の販売、プロパンガスの配達を生業としており、市内で一、二を争う富豪に嫁いだ母親は女児が2歳のとき離婚、実家近くの賃貸住宅で女児と暮らしていた。
 
 紋別滞在中、毎朝10時ごろになると3歳の子は母親が運転する車に乗ってやってくる。お茶は警察署、消防署、学校、市役所に配達。月末の集金も彼女が担当していた。
 
 プロバンガスのボンベの重さは約20キロ。都市ガスのない町はプロパンガスをボンベに充填するため各戸を回る。
店の経営者である彼女の兄とふたりで手分けして配達する。個人宅からの月末集金も彼女の役目。
 
 夜中、ガシャンという大きな音で布団から飛び起き、パジャマ姿のまま急いで外に出たら兄もいた。
 
 店舗は紋別の中心街(といっても夜はうら寂しい)にあり、深夜、店の前を長距離トラックが通る。トラックが電柱にぶつかったそうだ。「江戸っ子みたいだね」と言ったら、「なりふりかまわず飛び出して、バカだと思うでしょう」。
 
 昭和48年以来、小生の母が所有する紋別大山町の地所は地下水が豊富で、懇意にしていた市会議員が水道局に調査させ、優良な湧き水であるという結果が出ていた。
 
 市の水道は通っていたが、地下のおいしい水のほうがいいので地下水を家までひいた。ほとんど空き家の管理を女児の伯父に委託し、女児の母親に地下水を兵庫県宝怩フ小生の自宅へ送ってもらうよう依頼。アトピー性皮膚炎に悩まされていた伴侶の飲料用だった。
彼女は配達や集金の途中に寄って18リットルのポリタンク2つに溜めた水を自分の店舗に運んで宅配業者に取りに来させた。店舗向けの配送料は一般向けよりかなり安いらしい。
 
 配送された地下水は飲料、お茶、コーヒー、料理にも使い、一日4リットルは必要。ポリタンク2個36リットルは単純計算でも9日しかもたない。女児の母親は毎週水をくみにきて、月に4回送ってくれた。毎週、蛇口から車まで18リットルのポリタンクを2個運ぶという作業を何年もくり返してくれたのである。
 
 数年ほどたって天然水が売られるようになった。当時、大手は参画しておらず、南アルプス天然水などは市販されていない。購入したのは百貨店で扱う小規模店の月山の水ほか。ケースで自宅に届けてもらった。
そのころ女児は6歳、保育園の年長組になっていた。明るかった。よくしゃべる子だった。初対面のおとなに会っても自分から話しかけた。
 
 紋別の地所は1万5千坪で、そのうち6千坪が整備され、9千坪はクマザサやナナカマドが生い茂る山林。広い敷地を利用して、北海道電力を定年退職した地元の男性がカボチャの栽培を、同世代の女性がチューリップの栽培を手がける。
男性が育てたカボチャは北海道のどこで食べたカボチャより美味で、9月の収穫のあと玄関先で1週間(10日だったか)乾燥させる。
 
 チューリップを200株植えた女性は、「これだけ広いと200は少ないね。あと300は要るよ」と言った。彼女の夫は魚嫌いの漁師で、晩餐が肉料理だとご機嫌、魚料理のときはクチもきかずに食べていたらしい。
昔の女性はよくもわるくも個性的だった。現代の若い女性には見られないようなアクの強さ、しぶとさがあり、他者への思いやりも同居していた。その女性をこうるさい女性だと思っていたが、ひとりで黙々と畑を耕し、チューリップを一株づつ植え、毎日水をやりに来る姿に打たれた。
 
 いつだったかその女性が小学校1年の孫メグちゃんを連れてきた。この祖母からよくぞこんなに愛くるしい孫がと思えるほどで、目がくりくりして好奇心が強そうだった。
畑仕事のとき連れてくるようになり、保育園へ通っていた女児チエちゃんと遭遇する。メグちゃんはチエちゃんより1歳年上。チビたちは互いを意識しあって視線がぶつかることもあったが、遭遇後何度目かのある日、火花が散った。メグちゃんが「あんたなんか嫌いよ」と言い、すかさずチエちゃんも「あたしも嫌いよ」と言い返す。
 
 小生と伴侶がチエちゃんを可愛がる気配は容易に察することができ、自分を見る眼とチエちゃんを見る眼が微妙に異なっているのを感じて気分がよくなかったのか、彼女たちの相性が合わなかったのか。明るく人見知りせず、人から愛されそうな子どもが牽制しあい衝突することもある。
 
 チエちゃん母子は小学生3年の冬休み、京阪神に引っ越してきた。当初、紋別の小学校の友だちと離ればなれになって悲しげだったが、転校先ですぐ友だちができた。それも束の間、4年生の二学期に宝恷s内の小学校に転校。
母親は梅田の貴金属宝石店に約4年勤め、その後梅田にある百貨店の婦人靴売り場に転職する。チエちゃんは鍵っ子になった。靴売り場勤務中、神戸に本社を置く婦人靴メーカーにスカウトされ、シューフィッター研修費用をメーカーが負担し資格認定される。小生が、「手(宝石店)から足だね」と言ったら、「そうですね」と笑った。
 
 重度のアトピー性皮膚炎が徐々に回復してきた伴侶は時々チエちゃんを招いて夕食をふるまうようになる。最も好評だったのは天ぷら。天ぷら専門店で食べるように少しずつ揚げたてをチエちゃんと小生に食べさせる。
伴侶はクチから出まかせに「お座敷天ぷら」と言い、チエちゃんは家に帰って母親に告げ、お座敷天ぷらの作り方を教えてくださいと母親が電話してきた。
 
 彼女の義姉は秋田の人で、紋別にお嫁に来た。元々料理上手だったが、私たちの紋別滞在中、腕前をみる機会はなく、チエちゃん母子が京阪神に出てから小生の実家にキリタンポ鍋の食材10数名分を送ってきた。
比内鶏、秋田のセリとマイタケ、越谷ネギ、キリタンポ。そして秋田の醤油と酒を調合した出汁。セリとマイタケは新鮮で美味。調合出汁が醤油と酒だけとは信じがたい抜群の風味。それまでのキリタンポ鍋は何だったのか。醤油と酒に秘密があるのだろうか。
 
 チエちゃんの母親のつくるギョーザと筑前煮がおいしく、和食、とりわけ田舎料理の好きな小生が料理の交換を提案したら、彼女の休日に生ギョーザと筑前煮をこしらえてくれた。
母親はチエちゃんを厳しく育てた。小生がいても容赦はなかった。ちょっとした言葉遣いや態度にも強く叱責し、そこまでしなくてもいいのではと思ったが口出しできなかった。チエちゃんが言葉の頭に「なまら」をつけたときの怒りはすさまじかった。
 
 子は母の厳しさを理解していた。叱るのはひたすら子を愛しているからだ。母親はこんなことを小生に言った。チエが母親になり、孫の世話をするのが夢なのだと。
 
 6年生のころ、小学校で「尊敬する人」という課題作文があったらしい。チエちゃんの母親が言った。「チエがね」。そこで言葉が途切れた。涙ぐんで言葉にならない。父兄面談で担任教師が作文について語ってくれた。チエちゃんが尊敬するのは母だった。
チエちゃんの小中学校の成績は学年トップクラス。高校では宝恷sの篤志家が設けた奨学金(返金不要。市内で2名のみ支給)を受けていた。同志社大学社会学部に現役合格し、大学でも奨学金を受け、卒業後、金融機関に就職、転職先で知り合った男性と結婚。
 
 最後に会ったのは宝怩フスーパーマーケット。にこやかに話しかけてきた母子は1歳くらいの子を連れていた。

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