2023/09/17    障子紙の貼り替え
 
 子どものころ、よく晴れた秋の日、数年おきの恒例行事。天気がよく乾燥していると洗濯物が乾きやすいように、濡れた障子紙を乾かすには湿気の多い日は×。障子紙を破り、木枠に残っている紙を障子ごと水洗いする。水は大きなタライに張っておき、タワシでこすって紙片を取ってゆく。障子の総数は10枚くらいだった。
 
 昭和29年ごろまで祖父と父の仕事だったけれど、祖父が70歳になった昭和30年(1955)、父がひとりで貼り替えるようになった。小生はそのころ父に依頼され障子紙を景気よく破る手伝いをした。
指にツバをつけ障子紙に穴をあけるイタズラをしない子どもにとって、おおっぴらに破れるのだ。タワシでこする作業は、力のいれぐあいが小さな子どもには難しく、一方向に強くこすると細い木枠がはずれて修復せねばならない。小学校高学年になってタワシでこすらせてもらった。
 
 障子紙はロール状の和紙。巻かれた紙をハサミで適当な大きさに切る。残り飯を少しずつ取り置きして糊にしたものを水で薄め、ハケで木枠に塗る。塗りおえたところで紙を障子の上側から貼っていき、下までいくとその大きさに合わせて切った紙をつぎ足す。
大正9年生まれの父と明治18年生まれの祖父との練度の違いに興味があった。40歳前後の父に軍配があがったのは、祖父が高齢のため仕事がスローになっていたからだろう。
 
 左官職人の壁塗りを見るのも好きで、実家の建替えのときは、職人が来る日時にあわせて見学に行った。壁を塗る前、賽の目に編まれた竹の上に下壁を塗り、その上に本壁を重ねるように塗っていく。材料に水を入れ練った泥状の土を細いコテに乗せて塗る。最初は波打っていた壁が、何度も塗り重ねていくうちに真っ平らとなる美しさに目を奪われた。
 
 職人はお昼になるとアルマイトの弁当箱を開けた。お茶の入った水筒もアルマイト。彼らも、遠足時の私たちもそうした弁当箱、水筒を使った。おとなになって弁当箱はプラスティックだったが、それでは弁当を食べた気がしなかった。
 
 わが家の障子の貼り替えが終わると父は水を霧吹きに入れ障子紙に噴霧した。水の粒子に濡れた障子を日なたに放置しておくと紙のシワがしゃきっとし、きれいになっていった。和紙は洋紙にはない独特の風合いがあり、真新しくなった障子の落ち着いた白に魅了された。
 
 昭和43年(1968)11月、父が急逝。それから一度だけ近所の建具屋に貼り替えをしてもらったが、父より仕上げが劣っており、職人の風上にもおけないと感じた。障子は別の建具屋に依頼して板戸になり、昭和55年(1980)、旧家を取り壊し新築した。そのとき障子はすべてなくなった。その家も1998年に母が亡くなってから数年後、取り壊され更地になった。
 
 子どものころ実家の近辺にビルはなく、住宅のほとんどは平屋。真夜中、1キロ先の国鉄(JR)の20両はあったと思える貨物列車のガタコンガタコンという音がかすかに聞こえ、夜の静けさがいっそう深まった。
深夜営業の店はなく、夜ふけに車を走らせる者もいなかった。昭和40年代、貨物列車の音は聞こえなくなる。人口が増えるにつれて町は喧噪に包まれ、夜の静寂が消えたのだ。
 
 将来、家を建てるなら障子と縁側のある和風建築と思いながら35年以上の歳月が過ぎていった。そういう家を建てられなかったが、今でも夢に出てくるのは、年末の大掃除のとき、障子をはずして壁に立てかけたこと、障子のすべりをよくするため敷居にロウソクの蝋を塗ったことである。ロウソクは神棚と仏壇に常備していた。
 
 京都の寺や町家へ行き、障子を見ると思い出す。祖父、父が障子を貼り替える元気な姿を。父は小生の興味深げなようすを見てやさしく微笑んだ。将来、障子紙の貼り替えをするかどうかわからないが、手伝う前に見ておぼえるのもいいかという笑顔だった。心のこもったやさしい笑顔がよみがえる。
 
             京都の町家 藤野家住宅


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