2023/07/20    星の流れに
 
 昭和30年代の初めごろだったか、実家で毎夜のごとく宴会が行われていたのは。社交は苦手なのに賑やかなのが好きな母は、饗応目当てに集まってくる人たちに酒と食事をふるまい、わが家は酒屋のお得意様だった。
 
 ふるまい酒にドンチャン騒ぎするのは主に自営業者で、小さな工場(こうば)か商店経営者。兵隊帰りの彼らは酔っ払うと軍歌を歌う。「わたしのラバさん酋長の娘。色は黒いが南洋じゃ美人」(ラバはラバー愛人の意)とか、「さらばラバウルよ、また来る日まで」。また来るなんて思わないのによく歌える、戦争の悲惨は子どもでも想像できる。
 
 人に歌わせて、自分は歌わない母が数名からせがまれて歌ったのは、そのころ(昭和32年=1957)ヒットしていた大津美子の「ここに幸あり」。ラジオで歌を聴いたことがあるので知っていたけれど、大津美子といえばパンチのきいた「東京アンナ」と思っていたので、「ここに幸あり」はつまらなかった。唯一会社勤めの父の十八番は「侍ニッポン」。
 
 酔っ払いは子どもまで歌わせようと躍起になり、断り切れず「歌いなさい」と言う母を袖にするわけにもいかず、しかたなく「みかんの花咲く丘」を歌う。祖父の畑にビワとイチジク(無花果)があり、みかんの木はなかったので花は知らず、実感のないまま歌っていた。
 
 「みかんの花が咲いている。思い出の道 丘の道 はるかに見える青い海 お船が遠くかすんでる」という歌詞とメロディが好きだった。「お船は遠く」のところでキンキン声になり、音程もはずれて恥ずかしかった。両親に似ず歌の下手な子ども。
40数年後、英国で歩いたフットパスは思い出の道である。歩いていくと父にも自分にも会えるような気がする。心の風景は子どものころの懐かしい人たちと歩いた道なのだ。
 
 あのころラジオに流れていた曲はほとんど忘れたが、「月がとっても青いから」のほかに散髪屋でもお好み焼屋でも流れていた曲があり、歌詞もメロディも耳にこびりついてしまった。しかし、わが家の宴席でそれを歌う人はおらず、歌詞が危ないのかと思った。
その夜、初めて見る女性がその歌を歌い、圧倒的な歌唱力に絡み酒も泣き上戸も沈黙し、終わってもどよめきだけで拍手もなく、意気消沈したような静けさに包まれた。常にはない異様な光景。30代と思われる(20代だったのかも)女性のハスキーで艶のある声、独特の雰囲気。格が違った。
 
 次の宴会、その女性は顔を見せず、その次の宴席にも来なかった。どこから来たのか、名前はと常連が噂する。誰かの知り合いだろうと互いに思い、結局誰も知らなかった。名前とか住み家について関心はなかったが、生計はどうしているのだろう、同居人はいるのだろうか気になってきた。
 
 李香蘭に似ていると言う者や、筑波久子(日活)にそっくりと言い出す者も。8歳か9歳の子どもはちんぷんかんぷん。後日、17歳年上の従姉が持ってきた映画雑誌を見たら、ぜんぜん似ていなかった。どこからともなく宴席にあらわれ消えた幻の女。数年後デビューした桑野みゆきに面影を重ねた。おとなも子どもも自分好みの女性に仕立て上げる。
 
 中学生になり、その歌「星の流れに」と女性はワンセットになっていた。歌詞の文言と女性は何か関係があるのかもしれない。彼女のイメージとは裏腹に娼婦という言葉が頭のなかにもぐり込み、見たこともない顔の女がうごめいてドキドキした。
 
 小学生低学年で歌った「とんがり帽子」の歌詞「緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台 鐘が鳴りますキンコンカン」を思い出す。頭の軽い悪童が「赤い屋根は精神病院」と言っていた。ウソだとわかるウソをつくのが悪童の悪童たる所以(ゆえん)だとしても、妄想する自分は赤い屋根の患者に思えた。
小学生と中学生とでは羞恥心の度合いがちがう。音楽室で歌わされるテストはずる休みしたいほどイヤだった。みかんの花なら歌えたろうに。羞恥心と欲情は隣り合わせ。どうでもいいことをごちゃごちゃ妄想し、時間は加速度的に過ぎていった。
 
 1960年代末期、青江三奈がデビューしたのは知っていたが、数年後、青江三奈が歌った「星の流れ」を聴いて愕然とし、あのときの光景と歌がよみがえった。容姿や雰囲気は青江三奈とまったく異なるのに、ハスキーで太い声質が似ているのだ。
「星の流れに」を最初に歌ったのは菊池章子。後年ちあきなおみや藤圭子などが歌い、最近スマホで各々の「星の流れに」を聴いた。姿は見えないが記憶の向こう岸から流れてくる声。
 
     星の流れに身を占って 何処をねぐらの今日の宿
     すさむ心でいるのじゃないが 泣けて涙も涸れ果てた
     こんな女に誰がした
 
 「星の流れに」を口ずさめばくっきり浮かぶ。静寂と喧噪、猥雑と情緒が混在し、調和を保っていた時代。目がさめると懐かしい人たちに会える昭和30年代の日々。

前のページ 目次 次のページ