2023/07/17    ロードメイヤー 北浜店
 
 20代の後半になってスーツやジャケットは仮縫いなしのイージーオーダー、もしくは仮縫い付きのオーダメイドで誂えるようになり、仕事用はイージーオーダー、そのほかはオーダーメイドと用途別に区分けした。そのなかで北浜のロードメイヤーというイージーオーダ専門店の従業員に好感をもつ。昭和52年(1977)か昭和53年ごろだった。
 
 ロードメイヤーは細かいことを省略するとロンドン市長の意で、その名の洋服店はなかったように思う。ロードメイヤーは虎ノ門にもあったが、北浜のほうが先にオープンし、北浜は場所柄、証券会社関連の顧客がいた。
英国直輸入生地ということもあり、日本人だけでなく大阪で仕事する英国人に対しても2週間以内でスーツをつくりたいという要望を満たす。たまたま居合わせた小生が、生地と仕立てについて拙いながらも通訳したこともある。
 
 1F店舗の従業員、2Fの生地置場のカッターを含めて5人(女性ひとり)、アルバイトひとりの6人少人数体制なので、全員と仲良くなった。店長の浦さんは30代前半、従業員の大志万さん小生と同年代で宝恪ン住。
浦さんはかつて上岡龍太郎がかけていた円形メガネフレームの爽やかで愉しい人。後年、大志万さんによく似たタレントが出現した。ルー大柴だ。雰囲気もコミカルで癒やし系。
 
 親しくなると、まだ店頭に並んでいない初入荷の生地を「ご覧になりますか」と見せてくれた。カッターはロットと呼ばれる長尺の反物で、ローラーのように巻かれており、何段もの棚にずらっと店内に並べる。
生地幅はおおむね決まっているが、長さは2.8メートル。超肥満体だと3.2メートル。大きな裁ちバサミを使ってカットしていく。発注のつど採寸伝票から型紙をつくり、それにあわせて生地を切りとるのもカッターの仕事。その後は縫製工場に回す。
 
 夕方から閉店時間の午後8時まで従業員は接客に追われるので、午後2時か3時ごろ遊びに行き、子どものころや高校時代の四方山話。浦さんががそういう話題を好み、懐古談に花が咲く。
女性従業員は話の輪に入らず聞いているだけのようにみえたが、後日言葉を投げかけるとわれわれの会話の内容を克明におぼえていた。彼女は商品知識が豊富で、とりわけ生地メーカーに詳しく、毎月のように香港へ出かけ、卸商から生地を買っていた小生と話が合った。
 
 ロードメイヤーにはドーメルやウェインシールなどの生地は揃えていたが、フィンテックス、スキャバルといった高価格のものは取り扱っておらず、しかし、彼女はよく知っていた。礼服生地で有名だったハリソンズも店頭にあり、しかし3シーズン用しか置いておらず、夏用素材キッドモヘアは置いていなかった。
 
 ドーメル社のキッドモヘアは100番手生地に「スーパーブリオ」というブランド名をつけ、その濃紺色を香港で買ったので彼女に水を向けたら、ブリオは礼服用として100番手だけでなく120番手もあることを、実物は見ていませんがと言いつつ知っていった。
120番手濃紺が入荷したら連絡してもらいたいと香港の卸商に依頼していたが、結局、心斎橋大丸のオーダーメード担当(市内の生地卸会社派遣社員)に頼んでいた120番手のほうが早く、「井上さんだから」と特別に卸価格で売ってくれた。スーパーブリオはほかのメーカーのキッドモヘアと違って上品な光沢とツヤがあった。
 
 ☆100番手は1インチ四方に「より糸」100本を使用している。糸が細く生地の目が密となり、光沢と高級感がある☆
 
 ロードメイヤー女性従業員の接客態度はてきぱきしているがソフト、たまにしか笑顔をみせない。それでも証券会社員から一目置かれ、腰部は肉感的なのだが全身はスリムで、均整のとれた抜群のスタイル。目に色気があったと記憶している。
 
 ロードメイヤー創業時に他店か有名テーラーから引き抜かれてきた女性だと思えた。従業員のなかで前身がわかったのは2Fのカッター。神戸元町トアロードの有名テーラーで長年カッターをやっていたという。
従業員との交流は3年にわたって続き、彼らに会うのが楽しみとなり、さいわいなことに先方も楽しみにしてくれていた。そしてある日、浦さんが「稼業を継がねばならなくなり今月で退職します」と言った。愕然とした。人柄がよく部下からも慕われていたので、その後の展開が読めた。
 
 大志万さんが翌月退職し、3ヶ月後女性も退社した。二重、三重のショックで悄気返っていたとき、臨時店長に代わって三崎さんという店長がやって来た。あれは誰だったか、三崎さんの顔が吉本興業の船場太郎に似ていると言ったのは。三崎さんは朗らかで率直、誠実な方で、鳥取から出てきた従兄と同い年。
小生とウマが合っただけでなく、初対面の従兄と意気投合。従兄ひとりで三崎さんに会うこともあったし、宝怩ノ新築した母の家の1Fロビーに麻雀台を置かせてもらい、麻雀もした。母の旧家で卓を囲んだこともあった。
 
 三崎さんとの交流は従兄が鳥取に帰るまで3年半続いた。そして40年の歳月が流れていった。
さまざまな店で多くの人と接したが、香港ペニンシュラホテルの紳士靴バリーの店長だった男性(96年カルガリーに移住)を除いてロードメイヤーの方たちのようには懇意になれなかった。お得意様の交流に終わらず、店外の行動を共有した懐かしい人たち、古き良き昭和の思い出。

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