2023/07/15    インド鉄道の旅、アフガニスタン
 
 昭和48年(1973)8月、インド鉄道の旅24日間。夜間に列車は走り、朝食は車内各自の部屋(2人用コンパートメント)のル−ムサービス。食後、最寄りの駅で待機するバスに乗り、夕刻まで観光。昼食と夕食は観光地かホテルのレストラン。
食事テーブルのグループ分けは、当初はツアー会社のお任せなのだが、同じグループばかりだと交流が限定されるという説明があり、一週間経過すれば参加者の希望によって調整するというイキな計らいがあった。
 
 小生は大声で騒いだり、小理屈を言い立てる人でなければ問題なく、特定の誰かと同じテーブルにいたいと思わなかったけれど、最初のテーブルにいた若い女性が小理屈を並べる陰気なタイプで、この女性だけは避けたかった。そこへ現われたのが女子大生3人。みな明るく快活なので小生と気が合う。
 
 画像真ん中の佐藤真理子さんが小生を「おにいちゃん」と呼び、緑色の衣服を着た野呂さんも、白地に赤い花のプリント柄の木内佐知子さんもそう呼んだ。佐藤さんと野呂さんは4年生、木内さんは3年生。都内で暮らしていても、小生の実家は宝怐A野呂さんは江別、佐藤さんは新潟、木内さんは松本。
 
 「おにいちゃん、わたしたちのテーブルに来ない?」と言う。紅バラのなかに白バラ一輪は目立つので、「男女半々くらいなら行くよ」と言ったと思う。それでどうなったか思い出せない。たぶん目立った。
夕食を終え列車にもどっても、佐藤さんと木内さんは話の続きがあるからと小生のキャビンに来た。相部屋の横浜の私立学校教師青木さんという方は別の男性の部屋へ。
 
 話題はインドではなく前年(1972)秋のパキスタン、アフガニスタン。パキシタンのペシャワールを夜明け前に車で発ちアフガン国境近くの遺跡スワート渓谷に向かう。片道5時間の行程。貴重な仏教彫刻を展示しているスワート博物館の見学もあるので早朝出発。
地平線から上る太陽のうす明かりに映しだされた砂煙。車が近づくにつれて見えはじめる羊の大群とキャラバン。旅の途上に何度か見たが、そのとき数千頭はいるであろう羊と夜明けの光景に圧倒された。両手の指を駆使し、逆巻く砂塵と羊の群れを表現する。冒頭でペシャワール博物館の白色片岩ガンダーラ仏の話に時間を取られ、中断したのだ。
 
 バーミヤンだけを語っても5時間はかかる。カイバー峠とカブールで3時間。マザリシャリフとヘラートで3時間。風景、人間、特に子どもたち。ガンダーラ遺跡や博物館美術館の仏像。万年雪のヒンズークシ山脈。アフガニスタンから帰国して10ヶ月。コンパートメントで鮮烈な思い出を語るには時間が足りない。
 
 それからのコンパートメントは千夜一夜物語。語り手より聞き手のほうがはるかに熱心だった。あっというまに2時間が過ぎ、暑いなかを観光して疲れが出たのか、眠そうな目の木内さんに「青木さんにわるいからそろそろ帰ろう」と佐藤さんが言っても眠くないと返事する。
 
 「おにいちゃんも疲れているから」と佐藤さん。小生はパキスタンとアフガニスタンで鍛えられ、暑さも食事もへっちゃら。参加者のほとんどから食欲が失せていたが、もりもり食べた。
「おにいちゃんはヤセの大食い」と言っていたけれど、彼女たちが暑さバテして小食になっていただけ。旅の後半は食事にもなれて食欲旺盛。木内さんだったと思うが、「帰国したらインド料理食べに行こうよ」。
 
 古代史に登場するバクトリアやパルティア、大月氏。アフガニスタンは遺跡の宝庫で、それを見たい一心で来たのだけれど、仏教遺跡や仏像以上に感動したのはカブールからバーミヤンへつながる道の渓流沿いに延々と続くポプラ並木。傾きはじめた夕陽がポプラと渓流を照らし、ポプラの黄金色、反射した渓流の銀色がきらめき、えもいわれぬハーモニー。
 
 バーミヤンの55メートルと38メートルの仏陀立像と、磨崖につくられた道をのぼって大きい石仏の頭から見る村、彼方のヒンズークシ山脈。そしてバーミヤンの西75キロにある五つの湖バンディ・アミールの濃紺と緑色を語ると、木内さんの目は輝いた。
 
 カブールも盆地だが、バーミヤン村の盆地はカブールとは比較にならないほど昼夜の気温差がはげしく、日中は30℃、早朝は氷点下。バーミヤンホテルの前に流れる小川は朝食前は凍っており、食事が終わるころに溶けはじめる。空気が乾燥(湿度はゼロ%に近い)しているので暑さはほとんど感じられず、日影に入ると寒く、日ざしがありがたい。
 
バーミヤンで出会った10歳くらいの女の子。重そうなダーリ語の辞書を開いて、英語とアラビア語をおぼえるのが好きと言った少女の輝く目。刈り入れの終わった夕暮の畑に座ってワラを編む少年。背景はバーミヤンの谷と家畜。
 
 小型機でマザリシャリフに向かったとき、着陸態勢の飛行機は地面に届きそうな低空飛行で降下していった。そのときである、砂の町に青い寺院が忽然とあらわれ、飛行機はその真上を飛んだのだ。美しかった。この世のものとは思えなかった。ブルーモスクである。空から見るとモスク全体がよくわかる。
息を飲んでみとれていたので気づかなかったことをホテルのスタッフが伝えてくれた。「モスクの上を飛行することはありません」。パイロットのサービスだったのだ。
 
 マザリシャリフの西方20キロ弱のバルフはバクトリアの都バクトラがあったとされる町。アフガンのさまざまなモスクはイスラムの栄華を伝えている。バルフのモスクはマザリシャリフほど壮麗でもなく、小規模なのだが、朽ちかける佇まいが美しく、町の郊外の丘に大きな城壁跡。城壁の上に行くと町が一望でき、アフガンは山岳と岩沙漠の国だとわかる。
 
 ヘラートはタフティサファール(トラベラーズ・スローン 旅人の玉座)の夕景に尽きる。景色より夕焼けの赤さ。ダイナミックな大自然の赤はすべてを真っ赤に染める。風景も人も着衣も。桃色と茜色の町の反対側の空がミスティブルーから紺色に変わり、半月がはっきり見えた。イスラムの月である。
 
 アフガニスタンの紅茶は古ぼけた小さなポットに3人分くらい、最初からかなりの砂糖が入っていてめちゃくちゃ甘い。はじめて飲んだときギョッとした。それになれると無糖の紅茶にギョッとする。住人はいるのだろうかと思える辺鄙なところにもチャイハナが一軒あって、2アフガニー(10円)出すとチャイが出てくる。チャイのほかには何もない、文字通りのチャイハナ。
 
 インド各地の紅茶は美味。コンパートメント朝食時の紅茶も注ぎ口の長い金属製のポットに3杯分は入っており、いもうとたちも「紅茶はおいしいね」と喜んでいた。さすが英国仕込み。
 
 アジアハイウェイはテレビ番組で知っていたけれど、自分が車に乗って通ると想像したことはない。アジアハイウェイのサラン峠は海抜3000メートル以上。トンネルを抜けると道路の両側は雪でおおわれ、岩沙漠のただなかにあるところと思えず、濃紺の空と雪のコントラストは立山や大山などで見たことがあるのに、紺の濃さに目を見張る。
 
 アグラとニューデリーでは列車を降りてホテルで各2泊した(画像はニューデリーのホテルで撮影)。それぞれの町の2日目を自由行動とするためで、アグラのオプショナルはスリナガルだったが小生は参加せず、格安タクシーをチャーターして約50キロ北方のマトゥラーへ行った。木内さんと佐藤さんは、「おにいちゃん、来ないの?」とがっかりし、木内さんは「松浦さんとこ行くのね」と言っていた。
 
 アグラのホテルでの食事時間は各自自由で、テーブルの取り決めもなく、彼女たちと4人で夕食を食べた。天井にへばりついていたヤモリの話は「思い出レストラン」2019年7月20日「ホテルのレストラン アグラ」に書き記したのでくり返しません。
 
 帰国後、結婚が目前にせまっていた野呂さん(1974年1月跡見女子大卒業前に医学部学生と挙式)は仲間から外れ、木内さんと佐藤さんと頻繁に都内の各所へ出かけた。
どこだったか思い出せないがインド料理店へ行くと木内さんが、「なんかちがう」と言う。確かにちがう。冷房のきいたレストランではなく時によっては日中、扇風機の食堂は、汗をふきふきとなってもインドを丸ごと体験した気分になった。インドの味は昭和30年代の子どものころと同じような状況でこそ味わいがある。
 
 1973年10月、モロッコへの旅の準備に追われていたのを不審に思ったのか木内さんが、「おにいちゃん、外国へ行くんでしょ。だめだよ、どこへ行くかちゃんと言わないと」。行く先と帰国日を伝えたら、佐藤さんと二人で迎えに来た。
モノレール駅浜松町で別れようとすると、当時住んでいた下落合で「モロッコの話を聞かせて」と言うので、「時間が‥」と返すと佐藤さんが、「終電には間に合うよ」。
 
 1974年春、佐藤さんは成城学園大学を卒業したが東京に残った。成蹊大学4年生になった木内さんは文化人類学ゼミのゲスト講師としてアフガニスタンの話をしてくださいと依頼してきた。丁重にお断りしたのだが、神田教授からもゼミの仲間からも要請があるからといって聞かない。木内さんだけの要請とも思えたが、結局引き受けた。
 
 1975年春、卒業した木内さんは帰郷し、佐藤さんも実家に帰った。小生はその年も都内でねばっていた。渋谷の雀荘で引き受けた化学関係の翻訳が高額で、暮らしを賄うほどではなかったが仕送りもあったので何とか食いつないだ。三鷹のアジア・アフリカ語学院夜間へアラビア語を学ぶために通いもした。不勉強で成果は上がらず見切りをつけて12月帰郷。
 
 木内さん、佐藤さんと過ごしたインド鉄道アラビアンナイト。「よおし!、行くぞ、アフガニスタン!」と語気を強めた木内さん。松本でお見合い結婚した木内さんの子どもがまだ小さいころ重篤な病で亡くなったと風の噂に聞いたのは2000年。20世紀が終わろうとしていた。
 
 木内さんが生きていればインドなんか忘れたかもしれない。特等席を用意して、「おにいちゃん、アフガン、話してね」と言うか、「こんどはインドの話だよ」と言うか。いずれにしても語り終える前に小生は終着駅に着くだろう。あれから50年、インド鉄道の千夜一夜の続きを佐藤さん、木内さんとしたい。懐かしさでいっぱいである。
 
 
                   左から野呂さん(緑色)、佐藤さん、木内さん。後方のメガネはやせの大食い。 


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