2023/06/24    渋谷駅西口
 
 渋谷駅西口を出ると世田谷方面行きのバス停が並んでいた。国道246号線(玉川通り)に架かる陸橋を南に渡ると細い道路が三本あり、西に細い道路、中央は下りの一方通行、東よりの道路は上りの一方通行、上り坂の角に雀荘(ビルの2F)、その並びに大和田病院というそれほど大きくない総合病院、その向かいに大きなキャバレーがあった。
 
 南平台から鶯谷町の一角は道幅の狭い一方通行が複雑に入り組み迷路のようで、桜丘郵便局を目印にすればよいのだが、慣れないドライバーがそこまで行きつくのがタイヘン。当時は幸い20代前半だったからすぐおぼえることができた。
 
 学生時代の下宿は鶯谷町と南平台の境界(坂道)を登り切ったどんづまり。突き当たりコンクリート塀内の広い土地はパンナム(パンアメリカン航空)の一戸建て庭付き社宅数十軒で占められ、やや高台の下宿から見渡せ、誰もいないことのほうが多かったが、たまにクルーが庭で日なたぼっこしたり、ビールを飲んでいた。
 
 青田刈りで就職も決まり、単位もほとんど取ったヒマな先輩(同好会)から、「酒は飲めない、麻雀もしないでは人間関係つくれないぞ」と言われても、座ったままの室内ゲームは不健康という気持ちがあって拒んできた。入学後2年以上たったある日、「牌を積むだけでいいから30分だけつきあえ」と強引に誘われ、しかたなくつきあった。
 
 それから1年ほどたった土曜夜、渋谷駅西口近くの雀荘にいた。当初、相手は下宿の友人渡辺(彼はやらなかった)と同学部の男やその知り合いに付き合っていたが、そのうち雀荘に集まる若いサラリーマンと打つようになる。小生は特段巧者でなく、若いサラリーマンの多くはスジがわるいので勝たせてもらった。
 
 荘内にはいかにも雀士という感じのグループが一組いて、2人は常に同じ、ほかの2人はその時々で入れ替わる。ひとりは30代半ばの長島という人で、顔も雰囲気も成田三樹夫ふう。もうひとりは小柳という40代後半、雰囲気が漫才師(後に漫談家)春日三球似の陽気な人。卓を終えた数名が居残って見る値打ちのあるほど手作りと読みが鋭く、迫力ある麻雀。
 
 ルールの詳細は割愛するとして、点棒は2万5千点持ちの3万点返し。彼らのレートは千点1000円。箱点(点棒がゼロ)になれば3万円の供出、私たち学生のレート(千点100円)の10倍、負けが込むと10万円。遊びではなく博打。
学生街の雀荘では千点30円で遊ぶことが多く、1000円負けても金のない者は借りと言い、勝者は請求せず、踏み倒す者もいなかった。
 
 長島、小柳氏はリーチをかけられたとき捨て牌で手のうちを読めるだけでなく、テンパっている者の気配を感じるのか、誰かがテンパっても怪しい牌を捨てず回し打ち、勝つことより負けない麻雀をしていた。リーチの有無を別にしても容易に当たり牌を捨てないから敵は自分がつもるしかない。スリルがあっておもしろい。
隣の大和田病院は救急指定されており、夜が深まると救急車のサイレン音が頻繁し、院内は医師が奮闘し、荘内は雀士が躍起になった。大和田病院は毎日24時間、雀荘の営業は火〜土曜午後5時から午前零時だったと記憶している。日曜朝まで続けるサラリーマンもいた。
 
 長島氏と同世代の森島氏はカモネギにされても気にしない浅黒い痩せ型、翌年(1973年)の有馬記念万馬券(ストロングエイトとニットウチドリ)を的中させた。競馬の才はあったのだろう、先週のメインレースもとったと別のメンバーが話しており、懐具合は良さそう。ぱっと目にはやさぐれふうだが、話相手を尊重しながら、穏やかでひょうきんなしゃべり方をする。
 
 森島氏ほか麻雀で負けて居残った数名が時々チンチロリンをやる。
湯飲み茶碗にサイコロ3個を投じて、3個のうち2個が同じ目になると1個の目が有効。目の大小で勝敗を競う。3個すべてバラバラだと目なし。全員が目なしだと勝敗はつかず、ピンゾロ(1が三つ)が最強で3倍返し。百円玉が飛び交う手軽で安上がりなゲームだが、賭け金が大きければ完全な博打である。
 
 雀荘経営者は中年女性。都内の女子大に通う娘が時々手伝いにきており、金・土曜は学生アルバイトが入ることもあった。鶯谷、桜丘、南平台、代官山などの閑静な住宅に近いせいか、客層はそれなりに定まり、アルコールは雀荘の冷蔵庫の缶ビール少量、勝っても負けても痛飲する者はいなかった。
 
 小柳氏が小生を「先生」と呼んだことがきっかけで、ほかの会社員も冷やかしで「先生」と呼ぶ人が増えた。小柳さんに「先生、英語は得意かい?」と訊かれ、適当にこたえた。
1970年代前半の3月、渋谷から下落合に引っ越し、雀荘から足は遠のいたのだが、数ヶ月後、懐かしくなって行くと、いつものようにメンバーがいて、英文の書類を翻訳してもらえないかと小柳氏に頼まれた。
 
 彼が持ってきた英文が難しくなく気軽に引き受けたら、「うまく訳してあった」と言ってまた依頼され、そういうことが何度か続いているうちに徐々に量が増え、化学関連の専門用語が頻出しだした。
報酬が高額で断れないままきたが、納期に間に合うかどうか迷いが生じ、誰か紹介してもらえないかと松本の木内さんに当たってみたら、「お兄ちゃんの頼みだし、いいよ」と引き受けてくれた。
 
 彼女は成蹊大学英文科、木内さんの友人で、語学力はかなりのものと噂されていたらしい。書類を持って渋谷で会った。秀才タイプと違い端正な容姿。
「できると思います」と彼女は言い、額を聞いて驚いたのか、励みになったのか、予定より早く終わったと連絡が入った。
市販の英和辞典に載っていない用語は大学の図書館の何巻にも分冊された英英辞典で調べたのだろうか。それにしても探索力と訳文は翻訳能力の高さを物語っていた。
 
 そんなことがあった土曜、雀荘に行くと小柳氏が、「先生、いいところに来てくれた。チョーさんが遅れるので代打ち引き受けてくれないか」と言った。とんでもない、3万円の代打ちなんかできるわけがない。「金のことなら問題ない。負けても払うのは長島」と続けた。
内心は、金の心配さえなければこういうメンバーと打ってみたいと思っていたから渋々引き受ける。負けない麻雀に徹するしかなく、原点プラスαで半荘を終了。長島氏がいつ帰ってきたのかおぼえていない。
 
 戦い終えて三々五々、誰かが長島氏にあることを頼んだ。しかたないなあという顔で散らばる牌を集め、長島氏はギャラリーの誰かに手伝わせ4人分の山をつくる。サイコロを振って手際よく人の牌を配り、自分の牌を取る。大三元の牌がいくつか彼の手元に並ぶ。メンバーがポンとかチーをしなければ山から三元牌を引き、大三元が完成している。
 
 絶対にやってはダメ。しかしこういうことをするヤツもいるから、知らない人間とやるんじゃないよと長島氏は言った。渋谷駅西口の雀荘はそれからまもなく自動麻雀卓を導入。卓の内部の機械が自動で牌をかきまぜ、山積みをおこなう。変化の波が打ち寄せてきたのだ。
下落合を引き払って実家に帰ったのは1974年暮れ。最後に牌を握ったのは1994年。雀友のほとんどは鬼籍に入り、残ったのは真新しい牌だけである。
 
 
           お蔵入りしていた麻雀牌。点棒は下から万点棒、五千点棒、千点棒(2本)、百点棒(2本)。


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