2023/06/04    こうもり傘の修繕
 
 「こうもりがさのしゅ〜ぜん(修繕)」。自転車と横並びに歩く男がスローテンポで掛け声を上げる。自転車の荷台の木箱には修理道具一式が入っている。修繕の代わりに「貼り替え」と叫ぶ修繕屋もいた。傘の骨を修理したり、破れた傘布を貼り替えるのだ。
 
 自転車に乗ってやってくるのは、紙芝居、包丁研ぎ、豆腐屋。リヤカーを引いているのはポンポン菓子。紙芝居屋は水飴、甘くてやわらかいスルメ、酢昆布を売り、買う子にも買わない子にも見せてくれた。
 
 平日の夕刻に来る彼らは季節の風物詩でもよそ者でもなく、近所なじみであり、特に紙芝居屋は子どもたちに慕われていた。紙芝居はテレビのなかった時代の連続ドラマ。おもしろければみつづける。紙芝居のおもしろさはストーリー、画、語り手で決まる。ドラマと同じなのだ。
 
 昭和30年前後、気分や服装で傘を使い分ける人はみられず一人一本と決まっていた。雨具は傘、カッパ、長靴。地道が多く、雨が降れば泥でぬかるみ、長靴は必需品だった。
小学校3年のとき、二学期からの転校生で雨が降ると学校を休む生徒がいた。いがぐり頭、くりっとしたきれいな目、明るくハキハキし、標準語で話す紅顔の美少年。ほとんどの科目のテストで満点をとっていた。
 
 雨があがった日の放課後、ほかの学級委員と家を訪ねた。藻川(もがわ)という川の堤防と河川敷を隔てる斜面にあり、古びた板とムシロでつくった掘っ立て小屋のそばにくたびれた自転車。
 
 小屋の前で名前を呼んだが応答なし。二回目でムシロの扉が開き、男が出てきて、「すぐもどってくるからその辺で待っててくんな」と言い自転車に乗って去った。
「くんな」なんてどこの言葉だろう。自分の家でも祖父母は名古屋出身なのに鳥取在住が長く、かといって鳥取弁ではなかったし、父は結婚まで鳥取なのに方言も関西弁もほとんど使わず、北海道出身の母は一度も関西弁を話さなかった。
 
 まもなく帰ってきた彼にいざなわれて小屋に入ると、斜面に板が張られ床は平面で、その上にゴザが敷かれ、隅っこに折りたたんだふとんが積んであった。火鉢もあったと思う。天井代わりの数本の木組みにランプがつるされ、ふとんの横にみかん箱がひとつ置かれている。
「勉強机」とみかん箱を指さす。夜は早く寝るそうだが、その気になればランプの灯りで勉強する、小さい便所もあるよと言った。明るく、よどみのない口調が気持ちいい。来たばかりでまだ友だちもいないから、日曜は川魚を捕って放して遊ぶ。
 
 痛んだ傘は父が直すけど、ズックは一足しかなく、雨の日は泥だらけになり、洗ってもその日のうちに乾かない。雨靴がないから学校へ行けないと話してくれた。初めて世の中まちがっているという感覚におそわれた。
 
 冬休みに入る前、長靴をはいて登校した彼はうれしそうだった。三学期になって、放課後いっしょに藻川の河川敷を歩くと、真冬の川は春の流れになった。友だちになりたい思いが叶うだろうか、心が躍った。
 
 春休みが近づいたある日、自宅近くをどこかで見かけた人が自転車をこいでいる。「こうもり傘のしゅ〜ぜん」とよく通る声。「おっちゃん、傘持ってくるから」と告げた子どもは急いで家の庭先に広げていた傘をたたんで引っ返す。「15分くらいしたら取りにきな」と男が言う。
 
 修繕代がいくらか知りもせず、「おばあちゃん、百円もらってもいい?」と言うと、祖母は理由も尋ねず財布からしわくちゃの札を取り出す。孫の顔がいつになく真剣だったからだろう。15分が長く感じられた。
早く修繕代を渡したかった。ところが男は「これくらいは坊のお父さんでも直せる。骨がはずれていたんだ。カネはいらないよ」と言った。たしかに父も祖父も傘の骨が折れると自分で直した。それはどうでもよく、お金を受け取ってほしい。しかしクチには出せない。男は気づいているように受け取らず、「こうもり傘のしゅ〜ぜん」と掛け声をあげ去って行く。
 
 春休みが終わって4年生になった新学期、彼とはクラスが別になり、そのうち校庭か廊下で会えるのではと期待しつつ会えない日々が続き、情報通に尋ねたが知らない。放課後、急ぎ足で河川敷へ行った。遠目にも小屋は見えず跡形もない。
 
 3年の担任なら消息を知っているかもしれないと思いながらグズグズしていたけれど、放課後思い切って職員室に行った。
「ハヤシくんはお父さんと県北部の市営住宅で暮らしている、安心しなさい」と話してくれた。身体から力が抜けていき、次の瞬間、経験したことのないしあわせ感に満たされた。
 
 その後ハヤシくんのお父さんは腕のいいカバン職人で、失業し関西に出てきたこと、豊岡の親戚が市営住宅の世話をし、父子元気で暮らしていると風の噂に聞いた。
学生時代のキャンプでテントをはったとき彼を思い出した。65年たったいまでも長靴や水たまりを見ると思い出す。くりくりっとした目、楽しそうな顔、明るく生き生きした動き、前を見てまっすぐ進む美少年のすがたを。

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