2022/09/26    昭和の食卓
 
 昭和27年から昭和32年ごろ、わが家のおかずは魚介類のほかは野菜の煮物、焚き物が中心で、肉類はクジラのベーコンかクジラ肉だった。魚介は積極的に、野菜はシイタケ以外はほぼ何でも食べた。料理は父方の祖母がつくる。
ニンジンの煮物を残すと翌日からの煮物はニンジンが続き、イワシの煮つけだけではご飯が進まず、夢に出そうなので仕方なくニンジンを食べた。後年、子どものころ生のニンジンをかじったら甘かったという母の話を聞いてかじったけれど、特においしくなかった。
 
 祖母は黙っていたが、ニンジンの煮物を毎日続けたのは祖父の差し金にちがいなかった(祖父母は明治17年生まれ)。好き嫌いの多い人間に育ってほしくなかったのだろう。食べものは好き嫌いなく育ち、反動で人間の好悪が激しい。
 
 野菜の煮物はおおむね根菜類が多く、ダイコン、コイモ、レンコン、ゴボウなど。カボチャは北海道産ではなくまずかった。葉っぱ類はホウレンソウ、キクナ、シロナ、ハクサイ、マメ類はサヤエンドウ、サンドマメ、ダイズ。ダイズと昆布の煮物は昆布だけ食べてダイズを残すとどうなるか経験でわかっているので残さず食べた。
 
 魚は一年を通してイワシとサバ、カレイ、メザシ、秋はサンマ、たまにタチウオ。ほかにもあったと思うがおぼえていない。ブリは冬場にダイコンと炊く。冷凍のない時代、夏場の魚屋に並ぶ種類は限りがあった。魚屋はほかの食材店より率直な人が多く、新鮮な魚が入ってくると威勢がよく、不漁の日はしょぼくれていた。
 
 わが家の神棚の供物は洗い米、塩、お神酒のほかに乾燥ものの凍とうふ、しいたけ、かんぴょう、紅白寒天。毎月行事があって、その日だけ前もって注文した鯛をお供えする。時化で鯛がとれない日の魚は何だったのか。お供えの鯛はお下がりとして塩焼きになって夕膳に上がる。小生はほとんど手をつけなかった。サバやカレイのほうが好きだったのです。
 
 アサリやハマグリは買うけれど、ザル一杯で20円程度のシジミを買わなかった。徒歩10数分の川で散歩がてらにシジミを捕る。昭和30年代前半までシジミは棲息。みそ汁の具は貝類、キャベツとうすあげ、とうふ、タマネギとジャガイモ。庭の畑のナスビ、トマトは夏の常用食。ウスターソースをかけてがぶりとやる。きうりは祖母がぬか漬けにしていた。
 
 畑のダイコンはイカと一緒に煮物にして食べることもあるし、沢庵としても食べる。漬物は家で漬けると決まっており、ほかにもあったはずだが思い出せない。畑のトマトは絶品で、沢庵とトマトだけで昼食のおかずになった。
父は夕食にサバのきずしを足して、ビールをやりながらトマトをうまそうに食べた。枝豆も栽培しており、年中飲んでいるくせに、秋はビールが進むというのが口癖だった。
 
 家族や友人の写っている昔の写真を見ると追憶の幅が広くなり、思いが深まる。名場面は子どものころや20歳前後に凝縮されている。老いれば誰にでもわかることだ。人間が記憶を美化するのではない、記憶が人間を美化するのです。記憶より美しい過去がよみがえるのです。懐かしい光景に花も草もお辞儀をし、風さえも立ち止まる。
 
 思い出のほとんどは再現できないが、昭和の食卓は再現可能。煮物をかみしめながら伴侶と追想する古き良き時代。

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