2022/09/13    子どもの外食
 
 昭和30年代初め、野菜の種類が少なかった時代、食生活は豊かでした。一般家庭の冷蔵庫は氷式で、電気冷蔵庫もなく、冷凍庫もありません。食材はいも類、人参など一部の根菜類以外ほとんどその日のうちに食べねばならず、新鮮な野菜を食べていました。
80坪の畑で祖父が栽培したなすび、トマト、きうり、タマネギ、大根などの野菜、ニワトリ小屋の卵は自給自足。魚介類、くじら肉は市場で調達。畑で熟すトマトは特においしく、後年、買ってきたトマトは甘味も酸味もすくなかった。
 
  出前専門のうどん屋(丼物もある)と駅前のまずい食堂のほかに食べ物屋はなく、外食は日曜たまに父が連れて行ってくれるお子さまランチ。百貨店の大食堂でした。ある日、自宅から徒歩6〜7分ほどの場所に食べ物屋らしきものが建ち、開店したと聞いて行きました。店の横に旗が差してあり、「氷」と書かれた絵入りの暖簾が風にゆれていた。
 
 夏休みは吉野の山奥や高野山で過ごしていた時期が終わったころの小学4年か5年ごろで、子どもが10円持って食べられるのはかき氷。種類は少なく、いちご、レモン、みぞれ。10円すら持っていない子もいました。
各種ためしたけれど、レモンはまずかった。いちごはまずまず、飽きがこなかったのはみぞれ。当初ミルク金時や宇治ミルク金時はなかったような気がしますが、そういう高いのを食べ始めても、圧倒的に多かったのはみぞれです。
 
 子どもは常連になるとおまけがつく。かき氷は大盛りに。店のおばちゃんが手動の器械を勢いよく回す。かき氷が器からこぼれ落ちる。ああ、もったいない。大盛りは蜜(みぞれ)の量が圧倒的に増える。増えればかき氷の形が上から崩れていきます。でかした、でかしゃったという感じの崩れぐあいが嬉しく、また10円持って食べに行く。
 
 かき氷を食べていると頭がキーンとする。時々歯の根が合わずガタガタ震える。中学生になったらそういう現象はなくなりホッとしました。
近所の子がしわくちゃのズボンのポケットから10円を取り出して、一緒に行くと言ったときの喜び。夏休み中に何度あったのか、数えるほどしかなかったように思います。
 
 後年、手動かき氷機が市販され、手頃な価格だったので購入しました。しかし氷の質がちがうし、蜜もちがう。煉乳やあんこだけでは飽きます。何回かつくったけれど機械は放置され、いつのまにかなくなってしまいました。
 
 夏の終わりはつくつくぼうし、秋のはじまりはひぐらし。かき氷の終わりは子どもの夏の終わりでした。秋はお好み焼。豚玉とかイカ玉は値が張るので卵のみ。キャベツがいっぱい入ったお好み焼、豚玉は20円だったから10円の安いほうを食べていたと思います。それでもおいしかった。ソースと青のりかけ放題。
 
 冬にこそお好み焼。やけどしそうなほどの熱々をすくうようにコテに乗せ食べる。小腹がすくなんてものじゃありません。おやつ時、ハラペコちゃんりんになっている子どものご馳走。
 
 
 10数年前から焼き肉は食べなくなり、お好み焼と焼きそばは6年くらい前まで自宅でつくっていました。5年前、引っ越したころからお好み焼は食べたいと思わず、焼きそばは食べ続けています。
電気式ホットプレートは火力が弱いので、焼そばはフライパンでつくる。ガステーブル2ヶ、フライパンも2ヶ。伴侶と小生が並んで別々にひとり焼きそばをつくる。これがうまい。月1度だったのが、最近になって月2度。具材はそば玉、キャベツ(大切り)、豚肉、イカ。
 
 外食ではないけれど、肉屋で売っているコロッケもよく食べました。1ヶ10円。揚げたての薄塩でほんのり甘いコロッケ。1ヶ買い、衣の油が外までにじまない油をはじく粗末な紙に包まれたコロッケを道々歩きながら食べる懐かしの風景。
 
 未来志向型の人間は先を進むことで未来にしがみつき、思い出志向型の人間は過去がその人にしがみつく。認めようと認めまいと、人は過去の幽囚、過去は人の幽囚です。あのころの自分にもう一度会いたい。
 


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