2022/07/10    クレヨンとクレパス
 
 昭和31−35年、小学校の図画工作の時間が好きでした。1年生、2年生はクレヨン、3年になってクレパスを使いはじめたころ近所に絵描きがいて、日曜、子どもたちに絵を教えていたので習いにいきました。3年生だったと記憶しています。
当時のクレヨンはサクラ、クレパスはペンテル。冷やかしで買ったギターのクレパスの深緑色と青緑色が気に入って、その色だけギターのクレパスを一本づつ買っていました。特に深緑色はほかのメーカーより色が深く、日陰の緑をうまく表現できるような気がした。
 
 小学校1〜2年生の夏休みの宿題は絵日記。きょうは家の庭でトンボを採った。翌日はスイカを食べた。トンポやスイカをクレヨンで描くのは簡単で、かえってアイスキャンディのように一色でシンプルなものは難しい。
一番好きなのは風景でした。 極楽浄土は山を隔てた空の彼方にあるかもしれないと考え、夕方の山稜を専門に描いていました。水色、ピンク、オレンジ色のまざりあう空と紫色がかった緑の山影、そして、ねぐらに帰るカラス3羽。
 
 絵画教室は静物画ばかり描かされたせいか、1年も通ったのにぜんぜん上達せず、素質がないと気づいてやめました。花も果物も大好きですが、描くのは苦手。小学5年生で水彩画を描くようになり、絵の具がついた筆をカチコチになるまで放置し、水で洗っても元にもどらず、新しい筆を買っていました。
 
 中学1年のとき、学校から徒歩10数分の川の土手にすわって描いた水彩画が京阪神ブロックの優秀賞を受賞。担任の吉田先生(女性)がいつのまにかコンクールに出品したのを知らなかった。
雑草が生い茂る河川敷の水彩画はモネを三流にしたような霞んだ画で見られたものではありません。全校生の朝礼で表彰式がおこなわれ、突然のハプニングにたまげて、そういう賞にふさわしくないのになぜと恥ずかしかった。人生にまちがいはつきものです。
 
 高校の選択科目(美術、音楽、書道)で美術を選び、1年目は問題なかったのですが、2年生になって岡島という60がらみの派遣教師に代わり、その岡島の「キミはヘタだね」という露骨な言い草にムッときた。絵のヘタな生徒に同じことを言うのかと思って級友にたずねたら、「あいつはみなから嫌われている」。
 
 昭和45年秋から48年夏にかけて交流のあった女性が「絵を習いに新宿へ通っている。絵心をなくしたくないから」と打ち明けたのは交流2年目の、習いはじめて1年ほどたったころ。日曜はデートしなかったので通っていた。それから半年ほどたって、「絵、見たい?」と聞いたので、「見せてくれる?」と返すと、「いいよ、特別にね」。
 
 女性の自宅で油絵を見ました。静物画でした。落ち着いた配色という予想は外れ、渋い銀鼠色の花瓶に、派手な黄色とブルーの花が目に飛びこんできた。花の色は伸びやかで裏表のない彼女の生き方そのものでした。内面に存在するであろう暗さをキャンバスに封じこめ、明るさを強調したのかもしれない。
 
 20代後半から40代半ばまでは多忙をきわめ、子どものころを振り返ることも、絵心もきれいさっぱり忘れていた。
1999年10月、ミディピレネーを旅したとき中世の面影を色濃く残すサルラ・ラ・カネダで2泊。散策していると10代の男女10名前後が写生していた。街の路地や彫像のある場所でも若い人たちを見て質問すると、米国の美術学校からの画学生でした。
 
 大きな文具店があったので入ったところ、どんぴしゃのタイミングの画材がいっぱい並んでおり、クレヨンとクレパス、パステルを買いました。そのうちのクレヨンとクレパスが下の画像です。
帰国当初は喜び勇んで風景画を描きました。が、2度描いただけで、以来描いていません。小学生から進歩しない腕にあいそがつき、それでも捨てないのは、絵の具を時々見て色を楽しみ、回想にふけることができるからだと思います。
 
          
            1999年10月、ミディピレネーのサルラ・ラ・カネダの文具店で買ったクレヨンとクレパス。
               2度使っただけで収納箱に眠っていました。


前のページ 目次 次のページ