2022/06/23    ブランコ
 
 昭和30年前後、近所に公園はなかった。子どもの遊び場は神社やお寺の境内、空き地、路地。公園が少なかったのは市町村に財政的余裕がなかったからだけでなく、ヨーロッパと異なり公園づくりという考えが稀薄で、後回しにされていた。
神社、お寺の境内にブランコやすべり台が設置されたのは土地購入や敷地整備の手間が省けたからだろう。その後ブランコやすべり台を設置する公園が出現し、順番待ちする光景もみられた。
 
 小学校の校庭にブランコはなく、途中で裏庭に設置されたと記憶している。ブランコのある公園は遠く、2台のブランコで板に立ち大車輪さながら勢いをつけて遊ぶ。もう1台の子も負けじとばかりに加速する。
そのまま飛び降りて着地する。遠くまで飛んだほうが勝ち。着地に失敗して手や足を骨折、当て木をして登校する子もいたが、治るとまた乗っていた。小生はこわがりで大車輪などもってのほか、落下やケガの心配もせず暮らした。
 
 あのころのブランコは木の踏み板と金属の鎖。10年もたてば木も金属も雨風にさらされて劣化し、鎖は錆び、踏み板はひびが入り、一部は欠け、使い古された感じになる。そして朽ち果てる。
ブランコにもすべり台にもたいして夢中にならなかったのに、公園や空き地で誰も乗っていないブランコ、すべり台を見るのは好きだった。子どもを待っているのに来ない。雨の日はまったく出番はなく寂しげ。
 
 家から徒歩30分のところにに広い空き地があり、ヤンマーディーゼル、久保田鉄工、神崎製紙、キリンビールなどの工場労働者の家族を目当てに昭和30年代初めサーカスがやって来た。興行前はちんどん屋がねり歩いた。初めての生演奏はちんどん屋の笛と太鼓だったような気がする。
 
 空中ブランコを生で見るとテレビで見るのとはちがいスリルがあった。宙に舞うとき回転していたかどうか思い出せない。地面の上にネットが張られていたが、ブランコ乗りは難なく相手の手をつかむ。
戦後が色濃く残る時代は掃除洗濯など手作業、主婦の四肢は頑丈にならざるをえない。空中ブランコの女性の年齢は定かでないとして、四肢はとりわけ発達しており迫力があった。ピエロはちんどん屋に加わってクラリネットを吹いていた男だった。
 
 大阪市出身の伴侶が幼稚園のころ引っ越した家の近く(市内)に大きな公園があり、周辺に民家は少なく、ブランコもすべり台も待たずに乗り放題だったらしい。
 
 伴侶が小学校低学年だった昭和30年代半ば、木下サーカスをみにいった。サーカスブランコにあこがれていた伴侶がサーカスに行きたい(働きたい)と言ったらば、父親から「サーカスの子は家がない。転々と移動する」と言われ、放浪する自分とダンボールの家を想像し、夢が吹き飛んだそうである。
 
 小生の場合、サーカスは方々へ旅して楽しそうと言うと、17歳年上の従姉から「サーカスの子どもは酢を毎日飲まされる」と言われた。一升瓶に入った酢を小瓶に移す漏斗(ロート)が目に浮かんだ。当時、酸っぱいのは苦手だった。
酢の物を好きになったのは伴侶のおかげ。食生活は野菜中心へと改善された。が、数年前から多疾病と高齢による空中ブランコ的生活を送っている。
 
         ハイランド(スコットランド)のフォートウィリアム南西25キロ、ケンタレンのB&Bのブランコ。1999年10月上旬。


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