2022/06/06    会いたい人
 
 もう一度会いたい人は家族をはじめ、ほとんど旅立ってしまった。生きているときはそのうち会えると思っていた。心のなかに住んでいるからいつでも会えると自分を慰める。
 
 死者との模擬会話を試みると過去の会話がよみがえる。会話のなかで彼らは同じことしか言わない。だから懐かしくなる。子どものころの実家の勝手口、祖父の畑で交わした家族や従姉(または従兄)との軽口。
「Fちゃん(小生)はへらずぐちが多い」と言っていた昭和7年生まれの従姉や昭和21年生まれの従兄との会話。両親との会話でおぼえているのはわずかなのに、実家に出入りしていた人たち、特に両親より年長者との会話はかなりおぼえている。ほとんどが明治か大正初期生まれだった。
 
 明治32年生まれで、尋常小学校を終了後すぐ奉公に出されたYさんは、名が捨(ステ)といい、いつもモンペ姿。鼻歌で「ニッポン勝った、ロシアさん負けた」と口ずさむ。日露戦争(明治37−38年)後に流行った歌らしい。「さん」を付けているのは、ロシアは大国という意識があり、呼び捨てにするのを憚ったのかもしれない。
 
 Yさんが頑固だと思っている人は少なくなかった。苦労しているから話がわかる人もいれば、苦労したから頑固な人もいるというのは子どもでもわかる。
苦戦を強いられたことがないのに頑固であるとすれば生まれつき偏屈なのだろう。近所の悪ガキを叱責するYさんを何度か見た。迫力があった。物事をはっきり区別することを頑固というなら、小生は頑固のかたまりである。
 
 昭和30年代、実家の手伝いをしていたYさんに何かと頼み事をし、頼りにされるのを喜ぶYさんは、年寄り(45歳を過ぎると老ける)の会話に小生を参加させてくれた。帰省して再会を懐かしがると涙を浮かべていたYさんは入院するまでモンペをはいていた。テレビで菅井きんをみるとYさんを思い出す。
 
 紋別の市会議員Tさん(昭和4年生まれ)は、毛ガニが網にかかったら「ロ助ガニか」と海に投げ棄てたという。日ソ不可侵条約を破棄し、日本敗戦のどさくさにまぎれて樺太を奪ったロシアを蔑視していたのだろう。当時、毛ガニを食べる日本人はほとんどいなかったという。
 
 Tさんは大型二種免許を持っており、旭川のレンタルバスを借りて運転してくれた。昭和50年代の終わりごろだったと思う。乗員は内地から来た20数名。どこからどこまでの移動か忘れた。小生はバスのうしろをついていった。ときおり蛇行運転するので危ない。休憩のとき日舞の師匠が、「居眠り運転するので、がんばれ、がんばれTさんと声援していたんですよ」。
 
 大正12年生まれのMさんは糖尿病だった。北海道電力退職後、母が所有している紋別大山町の土地でカボチャ栽培を始め、雪どけの4月から収穫の9月までほぼ毎日畑にやって来て水をまく。
カボチャ畑は約500坪。カボチャの手入れ後は建物背後の上り坂の行き止まり(背後は林)に母が建てた記念碑まで往復30分かけて歩くのが日課。がっしりした体躯で175センチはあっただろうMさんは明るく、いつも笑顔で接してくださった。
 
 小生は札幌から紋別へ車で来ることもあったが、丘珠空港から小さな飛行機で来ることもあり、時々Mさんの群青色のマークUを借りて買い出しに行った。
Mさんのカボチャはそれまで食べたことがないほどおいしく、30年たったいまも匹敵するカボチャはない。栽培2年目、糖値が正常値にもどり、「これでカボチャ作りはやめられない」とおっしゃったときの嬉しそうな顔が忘れられない。
 
 収穫した数百個のカボチャを屋外で2週間ほど自然乾燥。カラスがつつきにくる。日中はカラスの番を誰かがやる。大胆なヤツは近くへ来て様子見しやがる。棒で追い払うまで去ろうとしない。ちょっと目を離すとカボチャ数個に穴があく。マサカリと呼ばれるほど硬いカボチャでもカラスはつつく。
 
 乾燥後、3分の1は地元の関係者に渡し、内地用約30家族の配送手配をする。1家族に5〜6個。それでも余る。滞在中はカボチャを食べ、それでも飽きることはなかった。
 
 カボチャ畑の横でトマト、ナスビ、キウリ、イチゴのハウス栽培をしていた明治生まれのSさん(女性)は私たちの料理番も時々やっていて、ホッケ(すり身)のハンバーグは抜群においしかった。札幌のマンションに帰る前夜、持ち帰り用をリクエストしたら翌朝持ってきてくれた。
カボチャ畑の手前でチユーリップを育てていたNさん(女性)と衝突することがあり、ふたりの言い争いはやかましかったが漫才みたいで、母と小生のたのしみだった。ある日SさんがNさんに怒鳴った、「花が食えるか!」。
 
 伴侶がもう一度会いたい人は父親と、3年半前に旅立ったOT君。OT君は私たちの会話に登場する回数が最も多い。伴侶が話してくれたOT君との会話の大部分をおぼえている。
晩年、高校時代の同級生と交流のあった彼は、「奈良ホテルで一緒にランチを食べました。昼食の件は内緒にしている」と言い、それで奥さんを連れていったことがないと伴侶は感じたそうである。小磯良平大賞の佳作を受賞したOT君のアクリル画・数点はインターネットで販売されている。
 
 現在存命中の仲間も亡くなれば会いたいと思うのだろうけれど、小生のほうが早く旅立つから会いたいと願う日は来ない。そういう気持ちになるなんて数年前は考えもしませんでした。
 
                 OT君のアクリル画。小磯良平大賞の受賞作クリスマス・ローズではないですが。


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