2019/11/05    祖父のハエたたき
 
 明治18年(1885)生まれの祖父は明治41年に同い年の祖母と結婚、大正5年、曾祖父の隠居にともない家督を相続し、戦時中、疎開先の宮崎県で農業をおぼえ、戦後まもない昭和21年(1946)鳥取にもどった。曾祖父は名古屋の料亭主で名は由右エ門という。江戸時代の人である。
 
 鳥取市内のS銀行に勤務していた私の父は、経緯は知らないけれど見習士官から少尉として中国へ従軍。昭和16年はるばる北海道から鳥取市へ来ていた母と昭和22年に婚姻届を提出、その後まもなく京阪神へ。
昭和26年父は新居を建て、祖父母を迎える。祖父母には子が6人おり、上が女、下5人は男、父は五男。長男と次男は夭折、三男と四男は戦死、男は父だけが残った。
 
 新居は建坪60数坪なのだが、庭のほかに祖父が耕せる畑が約80坪あった。
そこに祖父は小屋を建て、ヤギ2頭、ニワトリ20羽を飼い、トマト、ナスビ、キウリ、ネギなどの野菜、イチジク、ビワの木まで植え、宮崎で亜熱帯植物系の花を好きになったのか、カンナ、ダリヤを育て、外土塀の内側に色とりどりのアサガオを置いた。祖父はタマゴ採りを私に命じた。
 
 栽培したものはすべて育ち、夏がくると朝にはおいしいトマト、夕には種のつまったナスビ、日中は甘いイチジクやビワを食べた。あのころのように大きく、濃厚な甘味のイチジク、ビワは数十年お目にかかったことはない。
 
 桃栗三年柿八年、その次に「枇杷は九年で実がつかず」という常套句があるらしい。昭和26年、どこから調達したのかビワの木を植えた祖父は4年で甘い実をならせた。小学校1年目の初夏、満面の笑みをたたえた祖父がビワを手渡してくれたのをおぼえている。ビワの木の成長は早い。数ヶ月ごとに大きくなった。
 
 土塀内側の燈籠の近くに南天、手水鉢の下にユキノシタ、家屋とのあいだにシュロが数本あった。シュロの剪定か間引きかよくわからなかったけれど、春になると祖父はシュロの枝をノコギリで切り、ハエタたたきをこしらえる。シュロの葉は天狗のウチワのようだ。広がっている葉をギュ〜ッと圧縮し、両足ではさみ、たこ糸をきつく結いつける。
 
 大きさを整えるために余分な葉はタチバサミで切りとる。同じ作業をくりかえして手早く3個つくる。シュロにも盛衰はあるので、最盛期前後のものを利用しないと丈夫なハエたたきはできない。3個つくるのは、台所、居間、祖父の部屋に置くためである。ハエは待ってくれない。
 
 ハエたたきの威力はすさまじく、金物屋で売っている薄っぺらなハエたたきとは比較にならないほど強度が強い。柄もしっかりしていて、見事にしなう。祖父は70歳だったけれど、ハエたたきをつかんでたたくまで目にも止まらぬ速さだった。
私が同じハエたたきで何度やっても逃げられる。あの速さと呼吸を会得したいものだと思いながら2年たち、映画館で東映時代劇「大菩薩峠」をみた。主人公・机竜之介(片岡知恵蔵)だったか誰だったかのせりふに、剣の極意は「殺気を気取られぬこと」とあり、ハッと思った。
 
 そうだ、祖父も何食わぬ顔でハエをたたいて成功していた。ハエたたきをはじめて使って2年後(1957年と記憶している)、私も殺法たたきの仲間入りをはたした。
しかし現在、当時の祖父と同い年の私なら時間は2倍以上かかり、しかもたたきそこねて、まんまと逃げられてしまうだろう。驚いたのは、自分の額とか頬にとまっているハエを祖父が指でつかみ、新聞紙のきれっぱしにさっと包んだことである。
 
 小学校1年の遠足は原則として父兄同伴で、父は仕事、母も仕事という家庭環境のため祖父が付き添い、京阪神にある市立王子動物園へ行った。サル山はなく、檻にサルは入れられていた。どういう状況か忘れたが、檻に近づいた小学1年生に瞬時サルの手がのびて服をつかんだ。
 
 間髪入れず祖父のツエがサルの手を打ち、サルはびっくりしてひっこんだ。そのときの自分の鼓動をおぼえている。思いのほかサルには力があって、強く引っぱられたのだ。すがたかたちだけ見ると昭和中期の70歳は明らかに老爺だ。そんな俊敏さが祖父のどこに隠されていたのだろう。ツエでもハエたたきでも速さにかわりはなかった。
 
 小学校4年の夏、祖母が脳卒中で亡くなった。それからまもなく祖父は畑仕事に身が入らなくなった。それでもトマトやビワ好きの孫のために野菜、果実は育てたが、花の世話はやめてしまった。ハエたたきもつくらなかった。
夏の花、特にカンナとキキョウが大好きだった孫は、耐寒性のあるキキョウとちがって、カンナの球根を越冬させるときは盛り土が必要であることなど知るよしもなく、枯れたカンナを見てがっかりした。
 
 祖父は日々元気がなくなり、それから3年後の夏、76歳で旅立った。いまならわかる、配偶者の死による喪心の途方のなさを、祖父にとって花は祖母であったことを。あれから58年、またたくまに過ぎていった。
 
 


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