2022/04/23    祖父の畑
 
 太平洋戦争末期1945年7月下旬、鳥取県米子駅、弓ヶ浜駅、大山口駅などが米軍機に空襲されました。大山口駅からわずか数百メートルの地点にいた列車は戦闘機の機関銃により多数の死傷者が出たといいます。
米軍の空襲はすでに同年2月から始まっており、鳥取市も時間の問題かもしれないと考えた祖父は電光石火のごとく祖母の郷里宮崎県へ疎開しました。
 
 戦後数年間宮崎に滞在した祖父は農業をおぼえ、野菜と果物の栽培をはじめ、季節の花も育てました。昭和26年、京阪神に土地を買って家を建てた父は、畑用に80坪あるからと同居を勧め、昭和26年が暮れようとしているころ祖父母は引っ越してきたのです。
順序はわかりませんが、畑を耕しながら祖父は山羊とニワトリ小屋をつくります。夏がくるとウキウキするのは、もぎたてのトマトやナスビより、ビワとイチジクを食べられるからで、特にビワは絶品でした。そして花をめがけて飛んでくるチョウ、植物に群がる小虫を食いにくるトンボ。
 
 温暖化も気候変動もなかった昭和30年前後、約束しているわけでもないのに、時季がくると精確に花は咲き、虫は集まり、チョウやトンボはうずうずして待つ子どものところへ飛んでくる。
 
 チョウを捕獲するには花の蜜を吸う前はダメ。すぐ逃げられてしまうけれど、蜜を吸ったあとは身体の動きが鈍くなって捕獲しやすい。シオカラトンボを捕るのは簡単。空中を飛ぶ軌跡が一定しているから次の行動を読める。ヤンマは難しい。鳥は仕掛けをつくってもなかなか引っかかりません。
 
 祖父の畑に集まる昆虫は限られており、セミ、カブトムシなどは近く(徒歩6分ほど)のお寺、神社の境内へ行き、古い樹木によじ登らねばならない。クマゼミは高い幹で鳴いている。木登りは、こういっちゃあ何ですが得意でした。大木に囲まれた夏の境内は天然のクーラー、地風がひんやりして、太い枝に座って涼むと爽快。
 
 自宅からJR東海道線駅まで徒歩7分くらいでした。足の便がよく近場に田畑も残っていて、農業用の大きなため池もあったし、小川で小魚が泳いでいました。初夏から盛夏と気候が移ると灰色のフナの色が濃くなるのを観察。草野球をする空き地もいくつかあり、遊び場はいっぱいありました。
 
 祖父の畑で生活する昆虫のなかで忘れられないのはカマキリ。ふだんのすがたかたちは、特に顔は嫌いなのですが、時におもしろい。チョウが近くにくるまでじっと待って、いきなり鎌をふりかざして襲う。
成功したら、ニンマリ顔でむしゃむしゃとチョウを食べ、目には喜びがあふれている。逃げられると口惜しいのか何事もなかったような顔をする。まぬけ面を感じられるのがイヤだったのかもしれませんが、まぬけ顔でした。
 
 交尾を終えたオスがメスに食べられるときの顔は忘れがたい。よくぞ食べてくれましたという満足顔なのです。カマキリに喜悦を感じる神経はないはずですが、絶頂感にひたっているのかもしれません。
 
 夏の朝、ニワトリにタマゴを採った後、畑は小生がひとり占めできる遊び場でした。午前はチョウ、昼食後はトンボの時間。彼らと遊んでいると時間は足りません。
夕焼けに染まった自宅前の小道をコウモリがときおり低空飛行する。祖父の畑に空から紺色のマントが降りて、花は色を失う。夏から秋にかけて昆虫たちは徐々にすがたを消してゆく。
 
 都内の大学へ通いはじめました。さまざまな交流がありましたが、夜の繁華街へ通うことはなかった。行くとしても夕食のためでした。ネオンの花を好きになることは生涯ありませんでした。
 


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