2022/01/22    その場にいなくても
 
 旅の終わりは始まりに似ている。始まりは不安と期待、輝きに満ち、終わった旅に期待と不安はなく、炎に消えたものは灰のなかで見つかる。灰のなかで赤々と燃え、始めの旅より輝いて見える。
同じ場所へ行ったことがあるなら、ふだんは思い出さなくても、誰かが旅の話をしてくれたとき、その場所や交流した人たちが大図版か絵巻物を見るように展開してゆく。
 
 昭和44年(1969)KY君がU君たち4人で旅した北陸〜山陰。コースは三方五湖〜天橋立、津和野、萩、秋吉台。山陰は父の郷里鳥取や、小樽の船長から一転、山口県で山師となった伯父(母方)の終焉の地。小郡町(現山口市)と船木町(現宇部市)に山と工場があった。母がスポンサーとなって幾度となく訪れた仙崎。
 
 大正元年生まれの伯父は、食べ飽きたはずの鮮魚が好きで、仙崎か青海島(おうみじま)だったかの、建物の下に波が押しよせる旅館の特注大盛り刺身を、生魚をあまり好まない小生が唖然とするほど平らげた。
当時好んだのは、雪みたいに白い仙崎名物かまぼこ。名物にうまいものなしと奈良などでいうけれど、それは奈良にはうまいものがないからで、仙崎のかまぼこは新鮮で食感もよくおいしい。
 
 美祢市にある秋吉台&秋芳洞へ妹が同行したのを幸いに、カメラのモデルとなってもらった。未来の伴侶となる女性を京都で撮影するための予行演習。妹は兄の魂胆をわかっていた。
 
 伯父の工場に勤める人たちの多くは普通の方に思えたが、宇部空港まで出迎えに来るステーションワゴンを運転していた人は、角刈りで容貌が「網走番外地」を連想させた。伯父は豪快な人物だったから、命預けますみたいな人も集まったのか。
 
 それまでも京阪神に所用で来ていたが、60代半ばになっていた伯父は母のリクエストで「ソーラン節」を歌う。母が子どものころ聴いたのだろう。ソーラン節は海で身体を張る人間の魂の歌とわかった。信じがたい声量と、おそらくは漁師独特の節回しが心をゆさぶった。
紋別や内地で聴く歌とはまったく違った。後にパヴァロッティをテレビでみて伯父を思い出した。顔も体躯も似ているのだ。最初で最後のソーラン節。遠い風景。古ぼけた木枠の窓ガラスから海を見る子ども。誰だろう。伯父や母のように海を見て育った子ではないような気がする。
 
 話を元へもどします。1970年は68年に始まり、69年10月、正門バリケード封鎖、第二学生会館封鎖などのロックアウトが流行語となった大学闘争が収束の兆しをみせる。それでも終息には至らず、早稲田は休校。学内外は不穏な空気に包まれていた。おりしも70年秋、KY君はU君ほか2名計4人で紅葉の東北へ出発。
 
 東北の紅葉をみたのは1984年10月半ば。室蘭から青森までフェリーに乗り、十和田湖、奥入瀬と回り盛岡泊。それから五色沼へ南下。車2台6人の旅。1台は小生の私用、もう1台は処分する車。一足飛びに帰阪というわけに行かず信州でも一泊。予定が立て込んでおり、かなりの急ぎ旅。
 
 71年だったと記憶しているが、KY君に「インドへ行かないか」と持ちかけた。返事をもらったかどうかおぼえていない。急な話なので、とりあえず保留したのでは。
その後数十年たってKY君は勇気?をふるって決心したことがわかった。「私にとって初めての海外旅行がインドとはハードルがい」と「不安感を抱きながらも、インド旅行の同行を決意」。
 
 ところが小生は夏休みにと予定していたインド行きを中止。当時は理由を言えなかったけれど、交流のあった女性に「大事を控えて海外旅行はないよ」と反対され、あきらめたのだ。反対をはね返す強さも自信(入社試験への)もなかった。そしてお盆ごろ実施された入社試験に失敗。
 
 というような話を伴侶にしたら、「誘っておいて、KYさんに中止したと言わなかったのでは」と。粗雑だった自分をハタと思い出す。「いいかげんなところあったから」と言われてやぶへび。
 
 あのときKY君と行っていれば長旅(24日間ほど)はあっという間、列車のコンパートメント(ツインベッド)で寝泊まりし、ほかの旅仲間と一緒に夜な夜な語らう。当時はフイルムも現像代も高かったから、そうはバチバチと写真も撮れず、観光中も会話がはずんだかもしれません。
 
 KY君の天然的おとぼけとユーモアが周囲に受けて、小生のおしゃべり(現在は無口)と相まり、珍道中になっていたでしょう。ほかでは見られないインド絵巻。共に旅したことのない小生でさえ想像できるので、KY君と旅を共にした人ならなおさら期待度は高い。しかし過度に期待するとはぐらかされるか。
 
 「インド行きの計画が流れ、暑い所がダメなら寒い所へ行ってやるとばかりに、72年夏、当時JALが新たに開発したアラスカ→ハワイ旅行に飛びついた」というKY君。
アラスカ・ハワイの話、以前聞いたことがあるような気もする。そのとき、極端なのはかえって「らしい」と言ったような記憶が。インド中止を棚に上げてよう言う。でも、「らしい」と言ったのは夢か妄想なのかもしれません。
 
 実現しなくても、記憶の断片であっても、その場に居合わせなくても、半世紀前の話が生き生きしているのは、登場人物が重要な位置を占めているからなのでしょうか。
 
 話の最後はラーメン生卵とU君の家族。
帰りが遅くなるとKY君はU君の下宿(中野)に泊まる。「夜中に小腹がすくと、電熱器にのせたアルミ鍋で温めたインスタントラーメンに生卵を一つ落としてふるまう」U君。自宅通学のKY君は、「下宿生の彼にラーメンを作ってもらい、何か申し訳ない思いで麺をすすった」そうです。
 
 U君の自宅(愛知県)へ行ったら、「お母さんと妹さんはニコニコして、気遣い無用で居心地のよい雰囲気。八丁味噌の味噌汁と、初めて食べたオクラの味が記憶に残っている」。U君とご家族の人柄のよさが伝わってきます。
 
 2013年6月初旬、道後温泉でOB会がおこなわれた。6月というのに小雨が降るウソ寒い日。翌日、幹事がOB会初のカラオケを導入。U君が歌ったのは「奥飛騨慕情」。小生の母は晩年、持ち歌がソーラン節から奥飛騨慕情になった。名古屋の新聞社に入社したU君の地方勤務は高山支局。心のこもった奥飛騨慕情をしんみり聴きました。
 

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