2021/10/09    コーヒーミルブラシ
 
 話し方が足らなければもっと話せばよかったと思い、いっぱい話せばしゃべりすぎたと思い、これくらいにしておこうとたまに思うことはあっても、過不足会話の何と多かったことか。
クチから生まれた子と陰口を叩かれたほどべらべらしゃべった時代もあったけれど、30代から無口になって、以降は寡黙で通してきた。ここ1年ほど伴侶と語るときだけ雄弁になる。
 
 数年前までなら聞き役を続けても問題なかった。病身には30分でも長すぎる。車中、料理屋、居酒屋、ホテルの一室などで仲間の与太話を2時間も3時間も聞いていられたものだと呆れる。
何の意図も目当てもない人間が辛抱強く話を聞くのは情と体力を要し、情だけ残っても体力を失えばいかんともしがたい。男同士の語らいはおおむねそういうものだと思う。
 
 相性のよい者同士は適度な沈黙があっても会話の妨げにならず、沈黙あるがゆえに密度が高くなるのだろう。そういう話をするとき思い出すのはほとんど女性だ。
大学の同好会は新入生時代、古美術研究会・建築班に在籍した。1年先輩の女性(文学部)は都立大学生の妹さんと渋谷区富ヶ谷に住んでおり、一度だけ遊びに行った。姉妹は学年がひとつしか違わないので年子かと思ったら、広島の高校出身の先輩は一浪していた。
 
 建築班にいたころは顔と名前を知っているだけで、先輩が卒業間近になって短い交流が始まった。けだるそうな唇に特徴があり、話すテンポがスローで、妙にセクシーだった。ボーイフレンドはいたらしいのだが、「誤解しないでよ」とつけ加える人ではなかった。
 
 ある日、文学部から正門へ通じる一方通行道沿いの小さなコーヒー専門店に誘ってくれた。3年も通っていて、こんなところにこんなものがあると知らなかった。中はカウンター席5席の常連喫茶。老マスターが布ドリップでコーヒーを淹れる。
 
 昭和46年2月下旬、大沢商会就職が決まっていた先輩は帰省中の小生に電話してきた。当時彼女は芦屋市平田町、小生は西宮市苦楽園に実家があったので、距離も近いから会おうと話がまとまり、「プレイバッハ」という芦屋のカフェで落ちあった。お茶のあと、「時間あるならウチ寄っていかない?」と誘ってくださり、平田町のマンションへ行った。
 
 会話は思い出せず、おぼえているのは、先輩の文学部の友人女性が近々上洛するので、3月上旬のある日、京都市内で待ちあわせたこと、友人のショート・スカーフがさまになっていたこと、洛中洛北をドライブし、昼食は平安神宮の近くの「六盛」で手桶弁当を食べたこと。そのころ650円か750円だった。
 
 午後は円通寺へ行って、そのあと三千院へ向かう。円通寺からいったん北山通りに出ず、手前で左折(東方向)し、松ヶ崎に突きあたって左折、宝ヶ池通を走る。宝ヶ池トンネルのすこし手前に上りのヘアピンカーブがあり、トンネルを抜けると宝ヶ池をのぞめる。
 
 ヘアピンカーブの前でノロノロ運転している車がいて、急な上り坂を上れないのかギアをシフトダウンしたようすがわかった。そこでエンスト。車はすこしだけ後ずさりした。互いにブレーキをかけるのが遅れ、小生の車が相手の後部バンパーに接触し、かすかに軽い音を立てた。
 
 男性2人が下車して後部を確かめていたが、バンパーは傷もなく、へこんでもおらず、念のため事故証明を作成してもらいたいということで近場の電話ボックスまで行って110番。
彼らは京都市役所の職員で、そのうちのひとりのしゃくれあごと声はいまでもおぼえている。「こんなところで突然エンストするのもよくないが、そちらも気をつけてもらわないと」。温厚な感じがした。
 
 事はまるくおさまり、待っているあいだ車内のようすが気になって見たら、先輩たちはおしゃべりに夢中、全然気にかけていないふうで、小一時間は経過したろうか、再スタートするとき、「井上さんでもこんなことあるんだね」と涼しげだった。芦屋の先輩は在学中にB級ライセンスを取得した車好き。
 
 それから三千院へ行ったのかどうか思い出せない。数年後、宝恷s内の集合住宅で小生が「シルクロードの会」を開いている模様が「サンケイリビング」というタブロイド紙(毎月郵便受けに入っていた)に写真入りで紹介され、自宅電話番号も載っていた。
 
 まもなく先輩から連絡があった。職場結婚し、ご主人の異動で関西に住んでいるという。あのころと変わらないけだるく低い声。何を話したのかおぼえてない。
コーヒーミルの内箱に残った挽き豆のカケラを掃除すると早稲田の小さな喫茶店、先輩を思い出す。先輩に思いを寄せていたわけでもなく、コーヒーミルブラシを使う老マスターを見たわけでもないのに。
 


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