2021/05/13    昭和の風景(六)
 
 大阪市阿倍野区から移動し、昭和31年〜32年の一年数ヶ月、心斎橋界隈の料亭2階に住んでいた伴侶は、当時のことを詳しくおぼえており、幼少時の記憶が曖昧な小生とは大違い。
 
 岳父の正業は貴金属商。副業で料亭をやっていた。大正12年(1923)、福井県鯖江市の貧しい家に生まれた岳父は、大阪に出て働きながら押し入れで勉強し、昭和12年(1937)夜学が開校した旧制北野中学(現在の大阪府立北野高校)定時制へ入学した。
若いころからの話術を買われたのか、旧制北野中学&新制北野高校定時制卒業生による同窓会「北辰会」二代目会長に推され、10年間(1967〜77)つとめた。二代目と1967〜77は下の経緯で判明。
 
 5月12日、伴侶が「北野高校 定時制 北辰会(ほくしんかい) 佐々木真養」でネット検索した。一覧の上から二番目「北辰会 歴代会長」をクリックしたら、「二代目会長 佐々木真養」の写真(モノクロ)が出てきてびっくり。
私たちの華燭の典で撮影され、岳父の告別式写真にもなった。カラー写真なのだが告別式時はモノクロ。末期がんだった岳父は結婚式の1年半後旅立った。
 
 「真養は坊さんみたいやね。ゆくゆくは寺に預けようとつけたかもしれん」とおっしゃっていたような記憶が。
魅力的だった。権威権力なにするものぞという気概にあふれ、堂々として、時に体を張り、巧みな話術と人望により人の心を鷲づかみにした。
 
 岳父は子どものころ、どこで見たのか知ったのか、料亭を経営したいと思っていた。ところが、座は確保されても、「料亭に足をはこぶ経営者なんて聞いたことがない」と人任せに。
 
 女将とは名ばかりの母親も座敷には出たくないと言って出なかった。心斎橋の一等地にあった料亭は、料理を提供しつつ芸妓組合と提携し、綺麗どころが宴席に侍る。綺麗どころは「昭和の風景(七)」。
 
 下は従業員が中心となって催した「お化け」の記念写真。前列右端に岳父。「お化け」というのは節分におこなわれる厄除け伝統仮装行事。そういうときは両親も来る。親族で化けたのは伴侶のみ(「お染久松」のお染)。岳父が、「化けたいと思ってるやろうから化けさせよう」と言ったみたい。
 
 伴侶には四歳年上の姉がいて、姉は母親似、伴侶は父親似。姉は事情があって大阪市内で暮らす父方の祖母に預けられ、小学校に通っていた。心斎橋へは土曜午後に来て、日曜夕方に帰る。わびしいといえばわびしい。写真に姿はないし。
 
 後年、耳年増の姉(小生と中学2年、高校1年が同級生)は、「花街は独特の雰囲気。おとなのことは話を聞かなくてもだいたいわかる」と言っていた。従業員の話に聞き耳を立て、相当聞いていたのである。
 
 伴侶は料亭の仲居に可愛がられ、順番に彼女たちの膝の上に座っていた。それが快感となり、尿意をがまんしているのを仲居に気取られ、厠へ連れていかれる。
「なっちゃん」は、伴侶を映画館に連れて行ってくれて、入館前に巻き寿司を買い、チビは中身を食べずメシと海苔だけ食べ、「なっちゃん、暑いよ暑いよ」と館内販売のアイスクリームを食っていた。
 
 三勝(さんかつ)さんは度々、「野球カステラ、買ってきたよ」と渡してくれて、伴侶はグローブ、ミット、ボール、バットをむしゃむしゃ食べたという。ほんのり甘く、やわらかいので、延長戦を続けて食べたと思う。
 
 お俊(しゅん)さんの家に行ったら、年上の男の子がいたらしい。生まれてはじめて「釜揚げうどん」を食べた。とてもおいしくて、帰宅するや母親に「作って」と頼みこむ。夕飯の準備に忙しく釜揚げうどんまでやってられない母親は出前をとった。お俊さんの釜揚げのほうが断然おいしかった。
 
     
 
         前列右は父親。後ろは母親。伴侶はお染久松のお染。老人は鈴木仙太郎。戦前なにわの金相場を左右。
            
           左端の芸者姿は手伝っていた遠縁の叔母。伴侶の後ろは仙太郎の息子の嫁。残りは料亭の従業員。
           中列右の老女学生は三勝さん。その左の角帽はマコちゃん。角刈りの三つ揃いは料理長の野間さん。
     
            その左の乙姫?はお俊さん。その左隣の編み笠は思い出せず。その左の冠姿は伴侶にアイスクリームを
            買っていたなっちゃん。その左の芸者姿は忘れた。左端は婆や。よくまあ、おぼえているわ。


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