2021/05/05    昭和の風景(三)
 
 昭和36年75歳で没した祖父(明治18年生まれ)は同居家族のなかで最も長生きである。昭和33年に祖母が73歳、昭和43年に父が48歳で、母は71歳、妹は62歳で平成期に亡くなった。
 
 つらつら考えると、祖母は台所ほかで常にはたらいており、晩年の父は書に励み、母は最初の家や、父の死の7年後市外に新築した家にも、最初の家を建て替えた家にも定住せず、2軒の自宅、道東、札幌を転々とし、あいまをぬって方々行脚した。妹にもそれらしき場所はなかった。祖父だけが自分の定位置を持っていた。
 
 昭和27年、父が建てた家の居間は格子のガラス引き戸と縁側が南に面して、引き戸と障子のあいだに狭い廊下があった。祖父は庭仕事、ニワトリの世話、道具造りのほかにこれといってすることもなく、座布団を取り出して板廊に座っていた。
ひなたぼっこをしていることも、足もとに古い新聞紙を広げてツメをつむ(切るとは言わず)こともあり、庭をながめるでもなく、ながめないでもなく、ぼんやりしているように見えた。それでもいまの小生より忙しかったと思う。
 
 明治の人間は病院に行かなかった。戦後の皆保険制度とか、医者の数は関係あると思うが、習慣と気質とも関連があるようにも思える。
年に一度やってくる富山の薬売りの説明は、そばで聞いている子どもにもわかるような丁寧さだった。消費期限のきた貼り薬は交換していくとして、飲み薬の交換、購入は買手に任せる。当時の漢方薬はだいたい長持ちした。
 
 祖母は時々1センチ角に切った焦茶色の膏薬をこめかみに貼った。胃弱でやわらかいものしか口にしない祖父は、太田胃散を飲んで医者にかからず75歳まで生きた。
 
 数カ所の通院が週間業務となっている小生は、治癒を見込めず、症状を抑えるだけで副作用の多い薬を多種類飲むのがイヤになり、薬漬けになっていることを認めつつ、月に数回服用を怠る。しかし行きつけ内科医(腎臓・高血圧)にすぐバレる。「飲んでないな」と言われ、「忘れた」とでまかせを言う。
 
 消化器内科クリニックが居住宅1階にあるので、昨秋診てもらい、胃内視鏡検査後、ことし3月下旬やっとこさピロリ菌を退治した。退治しても年齢が年齢だけにどうってことはない、相変わらず不調。胃炎と軽度の潰瘍ということで処方薬を飲んでいる。
祖父の胃病は小生よりずっと若いころからだったし、もしかしたらほかの病気もあったが、病院へ行かず、検査もなく、わからないだけだったのかもしれない。
 
 祖父の定位置があった家は昭和55年秋に建て替えられ、その家も母が亡くなった3年後に解体され、昭和を偲ばせる建物は消えた。現代ふうの和風建築に関心はない。昭和前期までの純木造の、障子と格子ガラス引き戸、そして狭い廊下、縁側を懐かしく思い出す。
 
 昔の隠居老人は定位置を持っていた。隠遁生活の長い小生は伴侶との暮らしが定位置で安息地か。
 
 


前のページ 目次 次のページ