2021/04/23    昭和の風景(二)
 
 昭和20年代後半から30年代前半を懐かしんでいると忘れていたはずの光景がよみがえる。思い出すのは町から消えた風景、そして子どものころの遊び、唄。
伴侶も小生も小型プロペラ機から舞い落ちるビラを追いかけた。
 
 ガリ版(謄写版)を切ってわら半紙に文字だけ印刷されただけの、どうということもないピンクの紙だったが、伴侶いわく、「どうしてあんなものを拾おうと追いかけていったのかな?」。
 
 なぜ一目散に走ったのか。風に流されて遠くまで、隣町を過ぎてもまだ落ちてこないビラを追いかけたのはなぜか。
飛行機がめずらしかったのか、風に吹かれて飛んでいくビラにロマンを感じたのか。わからない。
 
 追いかけているうちに見知らぬ場所に迷いこみ、回りは知らない子どもばかりで心細くなったことも。
 
 
 伴侶と小生は旅行と洋画好き。海外ドラマ、なかんずく英国のミステリードラマをよくみる。
旅行好きなのは兼高かおるの番組が影響していると思っていたが、遠くへ、見知らぬ町へ行きたいのはプロペラ機のビラまきに芽ばえていたと意見が一致。
 
 
 若かった小生は何かと用をつくって外出した。小学生のころ、17歳年上の従姉に「出べそ」と呼ばれもしたけれど、いまではおおかたの高齢者と変わらない巣ごもり。
加齢による耄碌、疾病による衰弱に加えて極度の体重減少を抑えるため、3〜4月は食い納めではないかと伴侶が呆れるほど食べ、ある程度とりもどしたが、巣ごもり肥満老人が多いっちゅうのに2年前と較べて4s痩せた。
 
 3月下旬、1年2ヶ月ぶりに出べその伴侶と京都へドライブした。「体調万全とはいえないなか、気持ちを奮い立たせての京都行き。まずはご無事でよかったです」と横浜の仲間からあたたかい励ましのメールが届いた。それでいっそう気持ちを奮い立たせ、その後京都へ2回行った。
 
 自宅からJR京都駅へ車で50分、京都御所へ1時間は体力的に継続運転可。京都は20代から現在に至る伴侶との幾層にも積み重なった思い出の地。同じ場所へ何度行っても飽きない。
 
 相性は決してよいとはいえない伴侶とそういう間柄を続けられたのは、価値観が似通っていたからだろうけれど、育った時代と境遇にいくつか共通点があったからだと思う。
昭和20年代〜30年代、京阪神の中流家庭に育ち、大正期や昭和初期に生まれた両親は苦難の時代を経験し、私たちが幼いころ派手な夫婦喧嘩をやった。伴侶は恐かったという。
 
 小生はある日、大声で言い争う両親にいたたまれなくなって、正確にはおぼえていないが、喧嘩するなら自分はこの家にいたくない、親と思わないと、おいおい泣きながら懇願したと記憶している。喧嘩はピタッとおさまった。それからは小声で喧嘩していた。
 
 伴侶が言うには、祖父母は60代になると急激に老け、70を過ぎたころにはものすごく老けていた、いまとぜんぜんちがう、さまざまな診療科目のクリニックが少なかったのは、発症する前に亡くなる人が多かった、医科大学も少なかったからと。そういうことでも話が通じる。
メールを送ってくれた横浜の仲間も昭和20年代生まれ。境遇は異なるかもしれないが同時代に生きてきた。手短に話すだけで、あるいは言葉にしなくても通じる。理解とあたたかさの背景に昭和が存在するのではとも思う。
 
 私たちの子の世代は「聞いていない」を連発し、孫の世代は「最悪」を連発する。最悪が若者の口癖、流行語であるとしても、私たちは、「聞いていない」とか「最悪」とは言わなかった。太平洋戦争で最悪を経験してもいないのに言えるはずもなかった。
そんなことを言うのは一種の恥と思っていたし、聞いていなければ対応できないのかと思われたくなかった。だから自分なりに迅速に対処しようと試み、みじめな結果になっても、やれることはやったという気持ちは残った。
 
 数年前から耳がやや遠くなった。伴侶も昨今、何か告げると「えっ」と聞き返す。おまえもかと思ったら、小声で言ってもちゃんと聞こえている。要するに、聞こえていても「えっ」と聞き返すのが癖になっているのだ。
 
 耳も目も、ほかの部位も劣化衰弱して思うことではないのだが、昭和が遠くなるのもそう遠い先ではないだろう。もう遠い彼方にかすんでしまったのか。
 

前のページ 目次 次のページ