2021/03/21    昭和の風景(一)
 
 いつのころからか、たぶん昭和30年代後半から町の風景が味気なくなった。建築ラッシュがはじまって田畑に建売住宅やガソリンスタンドが建設され、レンゲ畑も菜の花畑もなくなっていった。
 
 小学校の通学路だった田んぼのあぜ道もなくなってしまい、遠回りしなければならなくなった。道は民家を縫うように走っている。四季折々のあぜ道の景色や、田んぼをじぐざくに横切る爽快感を失うのがつらかった。
 
 春の田畑は音の記憶と密接につながっている。早春賦、朧月夜を口ずさむと子どものころの風景がよみがえる。田畑の彼方に森、山の連なりがくっきり見え、夕暮、山は薄紫色にかすみ、えもいわれなかった。
上空でトンビがぴーひょろろと鳴き、くるりと輪をかいた。昭和40年代に入ると建物と電柱が乱立し、森も山も見えなくなっていった。
 
 戦時中、宮崎県へ疎開していた祖父は農業をおぼえ、昭和27年春、父が京阪神に建てた家で暮らすようになり、敷地内の80坪の土地に畑、鶏小屋をつくり、野菜、花の栽培もはじめる。
ニワトリ20羽の卵採集と散歩が小生の役目で、散歩させようとしても小屋を出るのを拒否したり、出ても跳びはねて羽ばたき、小生の足を叩く。痛さに悲鳴をあげるとヤツらはよろこぶ。
 
 日当たりのいい畑にはさまざまな野菜、花が植えられていた。しかしチューリップだけはあまり日の差さない中庭にあった。日陰がチューリップが開くのを抑え、花期を長くする。赤、黄色は薄暗さのなかでいっそうあざやかに見えた。
 
 昭和30年か31年のある朝、琵琶湖沿岸の町でポンポン船に乗った。船の所有者は両親の知人の知人だったと思う。近江八景の一部を案内してくれたらしいが、湖面から立ちのぼる蒸気が靄のようになっていたことしかおぼえていない。昼時となり、なぜニワトリ数羽がいたかわかった。
船頭が首を絞め、その場でさばき、鍋にしたのである。6歳か7歳の子どもに食べられるわけがない。いまだにトリは苦手である。
 
 田畑やあぜ道の光景がうかぶと「少年探偵団のうた」を思い出す。「ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団。勇気凜々、瑠璃の色」というあれである。60年くらい前(1960年ごろ)にドラマの挿入歌として少年合唱団が歌っていた。
1956〜58年ごろの冬、近隣の家々を夜回り(マッチ一本火事の元、火の用心)していたころに歌があれば、「ぼ、ぼ、ぼくらは」と歩きながら歌っていたかもしれない。
 
 ドラマ「少年探偵団」は1975年にも制作されており、そのとき怪人二十面相をやったのは団時焉B「京都人の密かな愉しみ」(2015〜2017放送)で滑稽味のあるエドワード・ヒースローを団時烽ェやったときは思い出せなかった。エドワード・ヒースローは団時熕カ涯の当たり役である。
 
 ヒースローは京都御所に近い大学の教授で、老舗和菓子店に隣接する町家を借りている。昼食は学生食堂で、夕食は自炊。食材は出町柳の庶民向けの商店街(出町桝形商店街)で調達する。
とうふ(いづもや豆腐店)、寒ブリ、大根、さばのきずしなど。店主と顔なじみ。とうふを包丁で賽の目に切るとき、「平安京」とつぶやく。間合いとテンポがよく、ほのぼのとした気分になる。綿入れの袢纏が似合う。夏は涼しげな作務衣を着てカラシとうふを食べる。
 
 そういうドラマをみていると昭和を思い出す。思い出が常に美化されるわけではないだろう。美しいもの、そうでないもの、思い出したくないもの、コミカルなもの、いくつもの光景が重なりあってパノラミックに映しだされる。自分の年代、経験、状況によって新たな発見もある。
 
 「花は根に 鳥は古巣に帰るなり 春のとまりを知る人ぞなき」という歌がドラマに出てくる。
ヒースローを追って来日した英国女性から逃れ、ひょんなことで頭を丸め、僧侶姿となって1年、英国女性が書いた短冊は訣別と再生の歌だ。彼はどこまでも三枚目。そこがいい。懐かしさと滑稽さが交錯する。
 
 夜の闇や静寂がなくなった町。月光値千金は経験者にしかわからないだろう。
安眠は妨げられ、「春眠暁をおぼえず」も人里離れた場所でしか経験しがたい。眠りが浅いだけでなく、夜中に何度も目のさめる老爺に春眠暁をおぼえずは困難。「永眠‥‥」なら容易。
               
 昭和20〜30年代の風景が単純明快でわかりやすいのは、その時代に生きた人々が江戸期から明治、大正期の風をなびかせていたことと無関係でないような気がする。
 
 生きる意味を云々する人は周囲にいなかった。意味のない人生を送りたいと思わないのは当然で、当たり前のことを言うことも、意味づける必要もなかった。当今、生きる意味を講釈し、その上に意味を上乗せする。
意味のサンドイッチは分厚く、わかりにくい。三百代言ならべても講釈は所詮講釈、適切な寸言に勝るものはない。エリート然として、わかりにくいからおぼえるのだと理屈をこねる人もいる。
 
 昭和前期、富を持たぬ人が助け合い、意味もなく人が人に支えられていた時代。心の風景。
 
 
             画像は京都府木津川市の「当尾(とおの)石仏の道」沿いの田んぼ(2015年9月)です


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