2019/10/10    ハロウィーンやって来た
 
 初めてパソコンを買った2000年1月、前年12月は夜になると近くの大型家電店へ行き、さまざまなメーカーのパソコンを何度も試用してこれはと思うものを大阪日本橋で購入した。当時、性能の良いパソコンは40万円を下らず、高い買い物だったけれど性能は大切。
 
 3万9千8百円くらいに値下がるのを待つ予定だったのだが、「そこまで待てばアタマもサンキュッパになっているのでは」と伴侶が言うので。
 
 伴侶が同じ市内に住む姉に、「買った。インターネットでアニメを集めてる」と伝えたら彼女も数週間後に買った。
義姉は最初、大学生の息子が大学生協の金利ゼロ分割払いで所有していたパソコンを「貸せ」と頼んだが、息子に「おかあさん、パソコンは何の略かわかる?パーソナルやで」と言われてムっとし、清水の舞台から飛び降りるつもりで買ったらしい。
 
 私たちはパーソナルではなく夫婦共用パソコン。インターネットも23時からでないと使えないISDNの夜間格安プラン。パソコン、インターネットが普及し24時間使い放題のプランが低料金となるまで半年間利用した。
 
 ISDNの最大の欠点は1秒間64kb(キロビット)というめちゃくちゃ遅い速度。後年の一般的接続速度100mb(メガバイト)と較べて単純計算なら約1560分の1も遅い(1560倍も遅いというべきか)。200kb程度の容量の小さなファイルをダウンロードするにも4秒かかる。数メガのファイルだと延々と待たねばならず、深夜、風呂から上がってもまだ終わらない。
 
 1台のパソコンを交代で使う(パソコンが大幅に値下げされ、買い足すまでの1年半そういう状態がつづいた)。23時から0時半は私、そのあと約1時間は伴侶というふうに。
深夜型の私はそれでよいのだが、伴侶は眠そうな目をしばたきながらミニイラストやGIFアニメを集め、私がホームページを始めた2001年3月以降、使わせてもらっている。
 
 姉妹のメール合戦がはじまったのはそのころ。伴侶がメールにGIFアニメを添付すると、向こうも負けじとどこからか拾ってきたアニメを添付する。義姉が多用したのはティラノサウルス。恐竜に追われて逃げまどう農民は私たち。せりふが入っていて、「お助けを」。義姉が昔、口癖だったのは「お代官さま、お助けを」。東映時代劇の見過ぎ。
 
 「ねえちゃん、ぜんぜん変わってへん」と深夜メールを作成する伴侶。相手の返信も深夜。ISDNから足を洗った年の11月、義姉のバースデイプレゼントにメールを送った。添付アニメは千両箱5箱に小判100枚。千両箱の手間は5回だったが、ピカピカ光る小判アニメは1枚1枚100回くりかえして配置。そういうバカをやるのはむろん小生。
 
 その後、「あのメールの小判、Fさん(私の名)がねえちゃんのために1枚づつ添付した」と言ったらば、労苦に感心するより呆れ顔を隠すのに苦労する義姉。
 
 それからまもなく伴侶はMIDIという音声ファイルを添付したメールを送った。声は小生、ふざけ声の録音。しばらく返信が来ない。3日ほどたってメールが届いた。「ハロウィン、ハロウィン、やって来た」。その声といったらなかった。「」はしゃがれ声でヘンな抑揚、「ってきた」は押し殺すようなダミ声。バカっぷりは私と同等かそれ以上。
 
 「聞くのは癪だから、どうやったらいいか必死で探してMIDIを見つけた」と伴侶がつぶやく。さもありなん。やっと探り当てたダミ声である。
 
 
 私たちが歌舞伎の常連であったことを義姉は承知していた、が、まったく興味を示さなかったので歌舞伎の話を避けていたある日、どこで聞いたか「ヤマトタケル」(先代市川猿之助)っておもしろい?と伴侶にたずねた。伴侶がどう返事したのか忘れたが、義姉は松竹座で上演中の「ヤマトタケル」をみにいった。
 
 彼女の旦那の勤務先は松竹座から徒歩1分半。めったに言い訳めいたことを言わないのに、「自分だけ楽しんでダンナにわるい」などと言い出した。「だったら一緒に行けば」と伴侶が冗談で言ったのをよいことに、妹たちが勧めてくれたとダンナに告げ、彼も重い腰を上げた。
 
 それから半年もたったろうか、時々歌舞伎見物に行くようになった義姉が私たちの舘へ遊びにきた。ハロウィーンのケーキ食べたさに。
大河ドラマ「毛利元就」の主役中村橋之助(八代目中村芝翫)がドラマのなかで舞っていたのをみたらしい。その直後、テレビで勘九郎と八十助の素踊りもみたそうで、「やっぱり歌舞伎の人はちがう、橋之助もうまいし、勘九郎の踊りはもっとすばらしいけど、八十助はすごい」と言う。すかさず伴侶いわく、「だから言ったでしょう、踊りは歌舞伎役者が一番。八十助は別格」。
 
 姉妹は子どものころ花柳流を習っており、何度も舞台に立っていた。チビのころの衣裳を着て顔をつくった写真をみると、義姉は大きく切れ長の役者目をしていた。人はみかけによらないものである。
洋服はたいして似合わない姉妹であるが、着物の着こなしがさまになっているのは所作の恩恵か。中学のころ(転校生の私と義姉は同級生)は清々しく、雅やかな片鱗さえあったのに、いつの間にやらコメディアン。
 
 彼女がある日、近所のマダム3人(義姉は非マダム系)とお茶に行き、その場にいないワンダフル・マダムの噂話となる。そのマダムをほめたつもりか、「掃きだめにツル」と言ったらしい。ほかのマダムが「そんなら私たちは掃きだめなん?」と突っ込まれ、返答に窮したそうだ。
 
 クチからでまかせ人間でも窮すことがあるのかと伴侶と顔を見合わせた。義姉は関西の某有名私立女子大国文科卒。彼女がメールで使う名はベン子。便所だろうと伴侶と話していたが、地獄耳なのか虫の知らせか、次のメールに「勉子より」と書いてきた。
 
 「玉三郎の鷺娘、よかったよ」と言う。私たちが先にみて彼女も行った。松竹座完成の年、勘九郎との「「鰯売」、孝夫(十五代目片岡仁左衛門)との「二人椀九」(ににんわんきゅう)の玉三郎の色気について私が熱弁をふるう。
彼女の勘がわるいのか、私の話がまずいのか、わかっていないような顔に見えたのでやむをえず実演。居間で横に寝転がる姿態、片肘ついて脚に色気、目に愁いをたたえ、二人椀久の松山太夫をやる。
 
 そのとき姉妹がどんな顔をしたか、それはもう、あらためて申し上げるまでもありません。
義姉が重篤な病で旅立って7年になる。「ねえちゃんの歳を越えてしまった」。数年前に伴侶がつぶやいた。
 
 


前のページ 目次 次のページ