2020/09/24    高校テニス部女子
 
 サッカー部の田畑がテニスコートの彼女を盗み見し、セクシーだと洩らしたことは「うすくち手帖」の「ガリヴァーと麦わら帽子」に記した。
2年9組同級生のようこさんはテニス部に入っており、164センチ、日本人離れしたプロポーション、形のよい脚、ショートカット、低いがよくとおる声。最近になって思い出したのは、唇がきゅっとしまっているからだろう、「フォリー・ベルジェールのバーのような女性」と田畑が言ったことだ。
 
 9組に女子は10数名しかおらず、山城さんという魅力的な女性はいたが、ようこさんのおとなっぽい雰囲気、ムダのないきりっとした動き、うつむきかげんからの上目づかい、たまに見せる謎めいたアルカイックスマイルなど、山城さんより魅せられた。
 
 体育祭の仮装行列準備で放課後も学校に残っていた昭和41年10月のある夜、人影のない道を駅に向かって歩いていると、後ろから誰かが呼びとめた。街灯が暗くて顔はほとんど見えなかったが、スタイルのよさが彼女であることを明かしていた。「一緒に歩いていい?」とようこさんは言った。
 
 田畑ならどぎまぎしたろう、しかし私は子どものころから成人女性になれていた。昭和30年初め、夜な々々わが家に複数の男女が出入りし、深夜までどんちゃん騒ぎ。6〜7歳の私も参加していた。賑やかなのが苦手なのに自分でも信じられないが、20代、30代の女性と対等であるかのように一丁前に会話し、「真室川音頭」とか「さらばラバウル」を歌っていたそうである。
 
 ようこさんも私も昭和24年生まれ。しかし私は高校1年のとき自閉症と拒食症で登校拒否して留年。1年を二度やった。順調に進級していれば過去のさまざまな出会いもなかったろう。顛末の良否の判断は数十年後になる。
 
 ようこさんはそれ以上寄ると肩と腕がふれあう間隔を保って歩いた。寄り添うとはそういうことである。月も妖精も影をひそめる秋の夜。「数学も得意でしょう、教えてくれない?」と言い、「いいよ」と応える。
別れぎわ、数日後の体育祭翌日、放課後、ふだん誰も使わない校門の外と告げたのはどちらだったか。教室で顔を合わせたけれど、ことばも交わさず、目が合うのも避け、落ちあった。
 
 二度目は秋の空気がいっそう清々しく感じられ、歩くこと自体が歓びとなる。寄り添って歩かなければわからない芳潤。記憶をたどってゆくと、一度も不機嫌な顔を見せたことがなかった。そういう表情は私以外に対してとっておくということではないだろう、強い自己抑制力なのか、不機嫌顔の回路が遮断されていたのか。
 
 ようこさんの自宅は1階が店舗(菓子)、店舗の奥に菓子製造所と倉庫があり、2階と3階が居宅で、2階の居間で彼女と話した。訪問2度目から彼女の部屋に通されたのかも知れないが思い出せない。
 
 大阪府立北野高校は受験校がそうであるように2年になると数学と英語の授業は別編制クラス。彼女とは英文解釈と英作文のクラスは同じだったが、数学は別だった。
文系志望のようこさんに数学Vは不要なので数学UB・数列から始めて、ベクトル、三角関数など実力テストに頻出するとみられるものを問題集のなかからピックアップし、解にいたるまでを簡潔に教えようと取りかかった矢先、意外なことばが飛んできた。
 
 「予備校行ってる姉が男と問題おこしたの。話、聞いてくれる?」。
概容はこうだ。ようこさんは女二人姉妹の妹。2歳年上の姉は一浪で、予備校2年目の男と交際し、深刻な状況になっていた。ご両親はまったく知らず、自分で解決しようと思っているらしい。数列もベクトルもあったものではない。
 
 その年はピアノソナタ月光のように加速度的に過ぎていった。期末テストが近づいていた11月下旬、北野高校1年だった私の妹が、ふだん通らない道を駅に向かって歩いていたら、前を行く私たちを見たという。
 
 実家を離れてひとり暮らしだった。久しぶりに帰ると、「(ガリヴァーの)ダンスの相手と違うけど、いい感じだったよ。ミニスカートが似合うスタイル」と妹は言う。離れたところで後ろから見ただけなのに、そんなことわからないだろ。
 
 年の瀬は急ぎ早にやってきた。冬休みのある日梅田で逢ったとき、モスグリーン色コーデュロイ・ミニスカートの彼女の脚を見てハッとした記憶がよみがえる。「姉の件、相手と話し合って解決したから。心配かけてごめんね」と言った。問題は収束した。逢うのはこれっきりかもしれない。
大学受験を控え暗黙の了解が熱情を冷ます。そうせざるをえなかった。昭和42年(1967)春以来、私たちは逢わなかった。光と影。かがやいている女性は影を落とすことによってさらにかがやきを増す。深い影は人間の心のなかにあるのだ。
 
 当時、彼女はビートルズに傾倒していた。やかましいだけと思っていた4人組は、後年ポール・マッカートニーがザ・ロング・アンド・ワインディング・ロードを歌い、ジョージ・ハリスンがサムシングを歌ったころ(1969)、ビートルズのアルバムを購入した。
ジョージ・ハリスンはホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス、マイ・スウィート・ロードなども作曲し自ら歌っている。ようこさんが誰を贔屓していたのか知らない。私はポール・マッカートニーもジョージ・ハリスンも贔屓した。彼らの歌のタイトルは私たちの象徴である。
 
 昭和46年(1971)12月初旬夕方、早稲田通りを高田馬場まで歩いていて本屋に寄りたくなり、駅に向かって左側の歩道に面した本屋に入った。狭い通路を進み、立ち読みしかけた途端、いきなり人がぶつかってきた。女の肩がぶつかり、何かが床に散乱した。拾おうとしてかがんで、互いに顔を見合わせた。ようこさんだった。
 
 彼女は第一志望の私大(都内)に合格せず、第二志望の大学英文科に通っていた。私が京都の国立大学受験に失敗したことは知っていたが、浪人していると思ったらしい。が、それはできなかったという気持ちが顔に出たのだろう、ようこさんは「そうね」という目をした。本来なら学年が違っていると打ち明けていたからだ。
 
 交流を中断し、遠ざかっていった私サイドの理由を知りたかったのか、自分サイドの言及をしたかったのか、彼女らしくない陰気な感じで「母のこと‥」と言う。「お母さん、どうかしたの?」と聞いたら、「えっ、知らなかったの?」と聞き返した。知っているわけがない。
 
 ようこさんの生い立ちや、交流が途絶えて彼女の身辺でおこったことは、お姉さんの一件より深刻だった。私は3年前に父が死んだことも話せず、ようこさんのことばに耳をかたむけた。
その話題は30分か40分で終わり、アメリカの先史時代を研究したい、卒業後、米国の大学に行くと彼女が語ったときはホッとした。
 
 昭和45年、2年9組から京都大学や大阪大学に行っている男の誰だったかの家で集まるから行かないかと、親しくなかったヤツにしつこくさそわれ、なりゆきで参加した。
京都大学理学部に行った岡、工学部の原、静岡大学農学部の犬島など率直で裏表のないガリヴァー製作メンバー、村人は当然のごとくおらず、現役組浪人組、大学の区別もつかない。
 
 気取っているか、わざとらしくすまして目立っているか、インテリぶった連中、エリート意識丸出しの連中は虫が好かない。彼らより成績の良かった私の国立大不合格をあざ笑うようなグロテスクな空気が充満し、よどんでいた。歓談しようとする気配は微塵もなく、ご愁傷さまという感じなのだ。来るべきではなかった。
当時、教師のあいだで東京大学をのぞく京大と阪大医学部以外の大学入学者は都落ちとみなされ、露骨にクチに出す幼稚な教師がいて、そのまねをする生徒もいた。
 
 一浪して大阪大学経済学部に入った上田は、クセがあるけれど好人物で、向こうから話しかけてきた。どういう話からそうなったのか、「田畑は死んだ」と言った。愕然とした私はほかの連中と会話を交わすことなく早々に帰宅した。
 
 風貌がギリシャの哲人のようで、思慮深い、しかしテニス部女子をこっそり見ている人間くさい田畑が‥。浪人中の昭和43年だという。まじめな上田も昭和46年に死んだ。
 
 ようこさんと話していると突然、田畑がよみがえる。一瞬どうしようかと迷い、「9組で一緒だった田畑」、「えっ?、田畑君がどうかした?」。直前の話題が話題だけに何かを感じとったのだ。
「3年前、亡くなった」。ようこさんは絶句し、遠くをみるような目に潤い色がさした。テニスコートで練習する彼女を田畑が見ていたのを知っていて気づかないふりをしていたのである。
 
 田畑にひとこと告げてやりたい、気づいていたぞ。やさしい田畑の笑顔が浮かんで胸がいっぱいになり、そのあと何を話したのかおぼえていない。
 
 私たちは逆風を裂いて前進していかねばならなかった。田畑もそういう生き方をしていたのだといまさらのように思った。田畑のかかえている問題が最も切実だった。貧困という逆風である。田畑は孤独の影をようこさんに重ねて、それでもかがやいている姿をいっそうセクシーだと感じたにちがいない、私がそう感じていたように。
 
 生きていれば、「プレイバック2」を歌った歌手にふっとよぎる不敵な影を見てようこさんを思い出したかもしれない。そんな顔が嫌いなら、「秋桜」の物憂い表情を見て、これならと思うかもしれない。唇をきゅっと結んだようこさんが愁いをおびて不意にあらわれ、自分が過去の幽囚であることを知るだろう。
 
 渋谷に住んでいたころ、1972年2月1日付でようこさんから送られてきたはがきが数ヶ月前出てきた。
 
 「智恵子抄」を読みました。
 
 「僕等」は片目をつむりながら読みました。
 
 たったそれだけの文言。「僕等」とは何だったのか。光太郎の詩ではなさそうだし、誰かの作品であるとして、誰なのか48年のあいだに忘れてしまった。
 
 ミネアポリスのミネソタ州立大学に留学したようこさんと長年、手紙のやりとりをした。昭和51年秋、修士論文のコピーを送ってきたが、その分厚さ、重さといったらなかった。英語は学年トップの成績を保ちつづけた彼なら読むと思ったのだろう。
「北アメリカ先住民の歴史と変遷 序章」という論文は、30万項目収録の英和辞典でも間に合わない用語もまじっており、歯が立たなかった、日本語の解説と専門語訳添付がなければ。
 
 旅行のあいまを縫って読み、完読して感想文を送った。ようこさんからの返事にこう書いてあった。「ここだけはほめてほしいと思うところをほめてもらいました。ありがとう」。面と向かって言えないことも手紙だから書ける一文。
 
 先住民の専門家でもないのに要所はわからない。人種差別問題を敷衍する比喩文がうまいなと感じたと述べ、冗長にならず、ずばっと書いた箇所が効果的と記しただけである。
自立心が強く、一本の道をまっしぐらに進もうとしていた彼女の支えになれるだろうか。迷路をさまよい、自分すら支えられない17歳の男子に他者を支えることなどできようはずはなかった。高校時代、無為に過ごした時間を挽回するため出番を待ち、10年目に巡ってきたということかもしれない。
 
 昭和48年2月、渋谷から下落合へ引っ越したおり、私のかわりに一切合切の手配をし、引っ越しも済ませてくれたMさんが十数通の手紙を発見し、「アメリカの子」と呼んだようこさんはミネソタ大学修士課程修了後、昭和52年いったん帰国し、渡航費を稼ぐためECC梅田校で昼夜兼行講師をした。
 
 1年後渡米し、次に帰国したのは結婚式をあげるためだ。相手はインドのタゴール家出身の若手医師。私たち夫婦も披露宴に招待された。
私の新居を訪れたとき、壁にかかっている伴侶の写真パネル数枚をしげしげ見て、「結婚することがあれば撮影お願いします」と言い、親族のみ出席する結婚式にカメラマンとして呼ばれ、スピーチも頼まれた。
 
 冬晴れでツバキがひときわ美しく、陳腐だがわかりやすく、ぴったり合うと思い、「寒椿のように凛とした人です」とスピーチで話した。インドでヒンドゥー教の結婚式もおこなうから数日後に離日するとも言っていた。
 
 ロビンという名の男の子の写真を7歳になるまで、誕生日のたびに送ってくれた。ロビンをおじいちゃんに会わせるため帰阪したときに再会した。その後、いつのまにか音信が途絶え、いまとなっては生死さえわからない。
現在より明快で鮮明な過去。どこに行っても、何をみても、思い出すのは過去に出会った人々と心の風景である。 
 
 
       イングランド・デヴォン州ティンマス。女性の後ろ姿を見た途端、ようこさんを思い出した。あまりにも似ていた。


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