2020-02-10 Mon
フィッシャーマンズ・ソング 英 2019

コーンウォール北部ポート・アイザックで撮影された「フィッシャーマンズ・ソング」(原題「Fisherman’s Friends」)は英国の小さな町贔屓きにとって見逃せない映画だ。インングランド各州のなかでも南西部のコーンウォールは異彩をはなっている。ブリテン島の最西端から大西洋に約140キロ突きだしたコーンウォール半島の歴史は古い。
 
 4〜5世紀、ヨーロッパ大陸からサクソン人がブリテン島に侵入、先住族ケルトは西部に追いやられ、当時僻地であった半島に住みついた人々の子孫が現在のコーンウォール人である。
彼らは独特の言語を話すブリテン島のケルト人、すなわちブリトン人だ。ヒラリー・フランク著「イギリスのママさん議員奮闘記」によると、「16世紀の半ばを過ぎてもコーンウォール人は独自の服装、伝統、農業、遊び、名前を持っていた」という。
 
 ブリトン人の子孫であることを誇りにしている人がコーンウォール(人口約54万人)には多く住んでいる。前掲書によると2014年4月、コーンウォール人を少数民族保護協定機構のもとでマイノリティ(少数民族)に認定するという中央政府の発表があった。
コーンウォールの住民はウェールズやスコットランドの人々と同じように保護を付与されるという意味であり、政府各省、機関が何か決定するときはコーンウォールの意見を考慮しなければならないということである。
 
 1月24日、大阪梅田の映画館へ行った。映画の主役はポート・アイザックの漁師10人。慈善活動資金集めを目的として1995年から地元で舟歌を歌いはじめたグループ「フィッシャーマンズ・フレンズ」。漁のようす、陸の仕事ぶりが生き生きと活写される。
彼らは漁のやりかた、ロブスターの罠籠のつかいかたを海上に出た小舟で数日間教えこまれたという。演技を感じさせないのは役者の情熱がたぎっていたからだろう。
 
 漁師の自宅で撮影がおこなわれた。ロケ現場のほとんどはポート・アイザックである。臨場感みなぎるシーンは目を釘づけにさせる。ロンドンのレコード会社へ行きはするが、ロンドンのなんとせせこましく薄ぎたないことか。
 
 いまも現役のパブ「ゴールデン・ライオン」が彼らのたまり場。そこでパドストウ(ポートアイザックの南西18キロ)の漁師と歌のクイズ合戦をやる。英国でヒットチャート1位の座が最も長かったのは誰で、その曲は何?といったクイズである。ビートルズ初期の曲かと思ったが、E・プレスリーの曲だった。
パドストウはポート・アイザックの漁師をホラヤギ(ホラ吹くヤギ)といい、ポート・アイザックはパドストウを海ガラスといい、互いを揶揄する。悪口の応酬のようでいて(実際そうなのだが)、気心の知れた者同士のユーモアの発露。英国冗語の原点。
 
 漁師の歌は魂の響きだ。天気予報は八卦見の世界、小規模の漁船で沖合に出れば、当たるも当たらぬも海の神次第。日本より優秀な気象予報士の多い英国でさえ、遭難の確立は高くなくても何がおきるかわからない。身体を張る人間は魂で歌う。彼らが歌うとそう聞こえる。
映画のなかで「進み続けろ」など5曲が歌われるが、耳にすればあれかとわかる「酔いどれ水夫」がすばらしい。錨のロープを引き上げるときや、マストの帆を張るときの歌だ。
 
 母の実家は北海道の網元だった。男7人女3人の10人兄姉の末っ子である。母が「あんちゃん」と呼んでいた長男は早く脱落、大学教授志望の次男は他家へ養子、三男(明治43年生まれ)はボンクラ。
祖父が跡継ぎにと見定めた豪快な四男(大正元年生まれ)は小樽にニシン御殿を建てたあと漁業を離れ、山口県小郡の鉱山を買い、ラジウムと滑石採掘の山師となる。理由は不明。剛毅で太っ腹の四男でも陸に上がった河童の成功は難しい。
 
 その後は豪放磊落な五男(大正6年生まれ)が網元を継承するはずだった。ところが昭和26年5月、漁船は出帆したまま帰らなかった。33歳だった。結局、アタマもよくない、たよりにもならない三男が継いだ。
高度成長の終わりかけた昭和40年代半ば、三男は網元の権利を莫大な金で売り、札幌で建設業、道東で銘木製造業などを始めたが、建設業は途中で左舞い、銘木は息子のふんばりで持ちこたえたが、平成半ば没落。
 
 山師となった四男は時々母を訪ねてきた。母曰く、「一番可愛がってくれた兄」。ラジウムも滑石も順調にいっていた。しかし昭和40年代になると斜陽化する。金融機関からの融資が鈍り、利息返済がやっとの状態が続いているとき、母は幅広い知り合いのなかから融資者3名を見つける。担保は銀行担保外の鉱山である。
 
 融資は母自身の信用力もあったけれど、父の存在も大きかった。父は鳥取県立商業学校を主席で卒業、財閥系S銀行に勤め、日中戦争が始まると見習士官となり、陸軍将校として大陸へ出征。復員後、鳥取で母と結婚し大阪に出る。
製紙会社に入社し家も建て、宮崎県に疎開していた両親を引き取った。有名銀行、陸軍将校といった経歴のせいか40歳で大阪市・大阪府が設立した第3セクターの管理職へ転身。誠実でまじめだった。
 
鉱山業は次第に経営不振に陥る。個人融資の利息返済は滞りがちとなり、融資分の鉱山を売りたいという債権者が1名出てくるが、融資分を取り戻せなかった。急場しのぎに追われていた伯父と母に微塵も暗さはなかった。ある日、母のリクエストで伯父が歌ったのは、北海道や内地で何度となく聞いた歌とはまったくちがっていた。
元々よくとおる声だったけれど、信じがたい声量と歌唱力で心をゆさぶった。民謡というよりオペラのテノール。それまでと比較にならない、魂が放たれるような圧倒的なソーラン節だった。後年、体躯も風貌も伯父を思わせる歌手が登場する。パヴァロッティである。
 
 映画で漁師たちが歌っていた「酔いどれ水夫」を聞いたとき瞬時に伯父のソーラン節が聞こえてきて、涙が出そうになった。若いころのわたしは冷ややかなところもあったし、本心を隠さねばならないこともある。どうしてもっとあたたかく迎えてあげなかったのかという思いが募ってどうしようもなかった。
 
 夜更けたころ、漁師の家の丘で語らう男2人。町を見おろす眺め、数十の豆球のような薄明りに映しだされる民家。その向こうに広がる暗い海。百万ドルの夜景より心にしみる。夜のきらびやかさは目が見、夜のはかりしれない深さは感性が見る。
 
 漁師テレビ出演のさい、女王が番組をご覧になるということで英国歌を歌う予定となっていたのに、歌ったのはコーンウォール国歌。してやったり、コーンウォールの心意気を示すシーンだ。
 
 窓の木枠にたまったほこり。潮が風に乗って運ばれて窓に付く。古ぼけたガラス窓を通して見る風景。かすかにしか見えない風景は、気の遠くなる長い時間の経過をあらわしているのかもしれない。