2019-12-21 Sat
再会の夏 仏ベルギー合作 2018

 
 「再会の夏」なんて、つまらない邦題にしたものだとみる前に思っていた。み終わってもその感は変わらなかった。
原題「Le Collier Rouge」(ル・コリエ・ルージュ 赤い首輪)をそのまま邦題にすると大詰を推測されて、ただでさえ動員数がすくないのにさらに減ると配給会社が考えたのか。コリエは首飾りでもあるから邦題を「赤い首飾り」とし、ノーヒントで謎めかせるほうが客の興味をひいたろうに。
 
 12月20日、大阪梅田の小さな映画館、60しかない席に20数名のシニア、若者はゼロ、当然といえば当然。若者が押しよせる映画をシニアはみない。シニアの観賞にたえる作品ではないからだ。
 
 映画がスタートして数分、「吠えていると喉が渇くだろう」と主人公のフランス軍判事が井戸水を汲んでイヌに与える。彼は罪状に関して一切弁明しない囚人を軍法会議にかけるかどうかを見定めるためにやって来た。囚人はイヌの飼主で、留置所近くの木の下にいるイヌは昼も夜も吠える。
罪状は第一次大戦終結の翌年1919年7月14日、フランス革命記念祝典行事が村の広場でおこなわれたときの些細な出来事によるのだが、そのシーンは終盤で明かされる。
 
 「吠えていると喉が渇く」というせりふで、イヌは人間の象徴とわかる。状況がどうあれ、声をあげてもあげなくても、吠えてばかりいると喉も心も渇く。イヌの登場するドラマといえば、律儀さ、恩返しといった陳腐なものが多いけれど、この映画はイヌに人間の愚かさ、妄執も代演させている。
 
 軍判事をやっているのはフランスの名優のひとりフランソワ・クリュゼ、囚人役は、農村の修道院で育った少女の物語「アヴリルの恋」(仏2006)に出ていたニコラ・デュボシェル。
囚人の子を産み、面会に行っても囚人に拒否される若い農婦役に日本では無名のソフィー・ヴェルベーク。一瞬モディリアーニの女性を連想させたが、「24」のニーナを演じた女優にもすこし似ており、よく見ると誰にも似ておらず、場面々々で魅力的な芝居をする。欧州演劇界は才能の宝庫である。
 
 監督は1933年生まれのジャン・ベッケル。遠くはイザベル・アジャーニの「殺意の夏」(1983)、近くは名優ダニエル・オートゥイユとジャン=ピエール・ダルッサンの「画家と庭師とカンパーニュ」(2007)など、フランスの片田舎出身の人間を見事に描いている。こういう名作をみて思うのは、ほんとうの主人公は農村のような気がしてくる。
 
 清々しい空気、ぬけるような空の青さ。干し草と土、野焼きがないまぜになった馥郁たるにおい。黙々と、しかし生き生きと農作業にいそしむ人々。過去におきた出来事を想起させる静寂とざわめき。見るものすべてが独特のハーモニーを生み、風の音さえ心地よい。そこで生まれ、そこへかえっていくかのごとし。
 
 第一次大戦のヨーロッパ戦線の多くは塹壕戦。塹壕のなかで戦士は追懐し、希望を持つのは家族に対する愛情であり、敵味方の別はない。彼らがいるのはテッサロニキ(ギリシャ)北部で、敵対する同盟軍(オーストリア、プロシア、トルコなど)のうち1909年以来の王国ブルガリア。
ときは1917年3月、フランスと連合軍側に与していたロシアの兵士も塹壕にいた。そのとき一通の報せが入る。労働者、農夫などがいっせいに蜂起しロシア皇帝(ニコライ2世)を退位させたというのだ。
 
 ロシア兵は喜びにわき、フランス兵士もこのように悲惨でばかばかしい戦争やってられるかという気分で盛り上がる。大戦中、塹壕のそこかしこで実際におきたことである。
現場の将校たちが自主的に上官の許可なしにクリスマス休戦をやったこともある。おおっぴらに語られることのなかった事実が第二次大戦後クチからクチへ、あるいは文章からヒトへと伝わり、「戦場のアリア」(2005 仏独英合作)などの映画で紹介された。
 
 映画「再会の夏」はフランソワ・クリュゼの芝居が秀逸。退役間近い少佐役で、戦争の惨状を体験した者でなければ表現できない情味にあふれている。
頑固な囚人をなんとかしたい、心をときほぐしたいという熱意がしんみりと、深く伝わってくる。彼が部下に指示する内容も、手がかりをみつけるため部下が関係者に事情を尋ねる場面も、関係者の挙動も自然。
 
 脚本、演出、役者、ロケーションの4拍子がそろえばすばらしい作品となる。作品によっては音楽はひかえめでかまわない。
出征する前、純朴な農夫だった彼がなぜかたくなな態度をつづけるのか。大詰で明らかになってゆく。人によって死より大切なものがあり、それは自尊心であったり誇りであったりもするけれど、他人からみればえっ!と思うようなことでヘソを曲げつづける人間もいる。当人にとっては最重要事項なのだ。
 
 フランス映画にしてはめずらしく後味のいい、さわやかな作品に仕上がった。
評を書く人間の一部は、頑固な農夫が自縄自縛になっていただけではないか、映画の結末は単純にすぎるなどとタテマエや理屈をこねて不満を洩らす。ドラマのなかくらいは結末に対してやさしい気持ちになってもらいたいものである。