2019-09-11 Wed
ガーンジー島の読書会の秘密 英仏合作2018

 
 原題は「The Guernsey Literary&Potato Peel Pie Society」。「文学に通じたガーンジー島民と、ポテトの皮のパイの会」。原作も同名(メアリー・アン・シェイファー&アニー・バロウズ共著)。翻訳本のタイトルは「ガーンジー島の読書会」(木村博江訳)。
原作者メアリー・アン・シェイファー(1934−2008)はウェストバージニア州出身の米国人で、訳者あとがきによると、「1976年たまたまガーンジー島にわたり、濃霧で動きがとれなくなったあいだ、飛行場の待合室で何気なく手にしたガイドブックに、ガーンジー島が大戦中ドイツの占領下にあったことを知り、その記憶が頭に残っていた」という。
 
 執筆のきっかけをつくったのは図書館で開いていた読書会の仲間。読書会が執筆中も力になり、励ましてくれたと原作者は語っている。本の完成前に重篤な病に倒れ、シェイファーは姪のアニー・バロウズに最後の仕上げを托した。
 
 物語は1941年、チャネル諸島(ノルマンディーに近い)ではジャージー島(約120平方キロ)に次ぎ二番目に大きいガーンジー島(約65平方キロ)ではじまる。
現在(2019年9月)、ガーンジー島のセント・ピーター・ポートへはイングランドのウェイマスとジャージー島、およびフランスのサン・マロ(ブルターニュ)から定期便が就航している。映画に登場するイングランドの港はウェイマスだ。
 
 着想は高評価できても、全文手紙形式の文章は冗漫。しかし卓越した着想を世に出すため原作者は生かされ、後世に恩恵を授けた。見事な映画が創られる所以である。原作者も訳者も映画をみたら、演出と役者のすばらしさ、テンポのよさに舌を巻くだろう。
 
 ただし一部の評者が記した「全く予測できないストーリー」とか、「誰もが初めて味わう至福のミステリー」といった評に対しては、経験不足で的はずれの評であると言っておく。なぜなら、ストーリーは予測可能であり、初めて味わうどころか、中高年洋画ファンにとってありふれた展開のドラマであり、特段ミステリーじみてもいないからだ。
 
 にもかかわらずこの映画のおもしろさは次の事柄に依拠する。主人公ジュリエット役のリリ−・ジェームズがテレビドラマ「ダウントン・アビー」のローズ役より格段にうまくなったこと。ローズは新進米国女優のような拙い演技だった。
「ダウントン・アビー」でヘンリ−・タルボットをやったマシュー・グードがジュリエットの友人シドニー役で本領を発揮したこと。三女シビル役のジェシカ・ブラウン・フィンドレイが、登場シーンは少ないけれどドラマの芯となる純粋で勇敢なエリザベス役で存在感を示したこと。エリザベスの不屈の精神は英国そのものである。
 
 エリザベスを娘のように愛しているアメリア役ペネロープ・ウィルトン。興味津々のジュリエットを受け容れず、頑なだったアメリアが人間味あふれていたこと。こうしてみると主だった役者は「ダウントン・アビー」に出ている。
 
 キャスティングは映画をさらにおもしろくする。ガーンジー島で養豚業を営み、改修工事などの副業に従事する男ドーシー役のミキール・ハースマンがステキで魅力的。30代後半の女アイソラ役のキャサリン・パーキンソンがうまい。
 
 13世紀以来、英王室属領ガーンジー島の元首は英国王なのだが連合王国に含まれず、独自の自治権を持つ。
1855年、ナポレオン3世に対する批判を強めたヴィクトル・ユゴーが移住したのはガーンジー島。ユゴーはフランスへ帰る1870年までガーンジー島に住む。ユゴーの次女アデルも一緒に暮らし、彼女を主人公にフランソワ・トリュフォーは「アデルの恋の物語」(1975 仏)を監督。アデル役は名女優イザベル・アジャーニ。
 
 ガーンジーがドイツに占領され1年たった1941年のある夜、島民5名(エリザベス、アメリア、ドーシー、アイソラ、エベン)がひそかに集まる。アメリアが隠していた豚(家畜のほとんどはナチスが没収している)を丸焼きにして夕食会を開いたのだ。
 
 小さな郵便局の老局長エベン(トム・コートネイ)は手づくりのパイを持ってくる。ポテトとポテトの皮だけでつくった「ポテト・ピール・パイ(Potato Peel Pie)」である。
ところが帰り道でドイツ兵にばったり出くわし詰問される。夜間外出禁止令の刻限をすぎていたのだ。エリザベスは「読書会」の帰りだとごまかすが、怪しむドイツ兵は読書会の名を問いただす。エベンが「The Guernsey Literary&Potato Peel Pie Society」とクチからでまかせを言う。
 
 トム・コートネイに関して言及の要はない。英国を代表する名優のひとりである。演技をまったく感じさせない。秀作「リスボンに誘われて」の主人公ジェレミー・アイアンズとの共演。介護施設でくすぶるジョアン(トム・コートネイ)は医師にタバコを禁じられている。
ジョアンを紹介する姪(マルティナ・ゲデック)から、「伯父にタバコを与えないで」と言われる主人公は気軽にタバコをすすめ、うまそうに一服したジョアンは過去を話す。ポルトガルは1974年4月「無血革命」までの48年間、独裁体制下にあり、ピアニストをめざしていたジョアンは秘密警察にひどい仕打ちをされる。ふたたび「リスボンに誘われて」をみたくなった。
 
 映画は最初の3〜5分でおもしろいかどうかが決まる。スリリングなドラマのはじまり、英国流クチからでまかせの妙味、星あかりに映しだされた家並みの美しさ。
ロケは戦後に建てられた民家が並ぶガーンジー島ではなく、往時の面影を残すコーンウォールの小さな町でおこなわれた。息をのむほど美しいポルペロー、ニューキー、マーゾルの古民家がまぶたに浮かぶ。
 
 場面は変わって1946年のロンドン。「私はドーシー、ガーンジー島の住民です」という一文ではじまる手紙をジュリエットが読む。ジュリエットは若手作家で、以前「古本屋」に売ったラム(チャールズ・ラム 1775−1834)のエッセイ集をドーシーが入手し、そこに走り書きされていたジュリエットの住所に手紙を出す。
「読書会は、ドイツ兵に豚肉を知られたくないことから始まりました」という手紙に惹かれたジュリエットは返事を書き、ドーシーから届いた手紙にさらに興味をそそられ、ウェイマスから船に乗りガーンジー島へ旅立つ。
 
 人は或る映画をみて、どれだけ過去を思い出すのだろう。ほかの人には見えない人間の隠れた部分を理解するという、金儲けにならない能力が役にたつことはあるのだろうか。悲嘆のない人生や破綻のないドラマがおもしろいだろうか。そんなものがおもしろいなら、理解も共感もない人生もおもしろかろう。
 
 ロンドンにもどるジュリエットが搭乗する小型飛行機は、短い滑走路の先端まで走り、きびすをかえして離陸する。読書会のメンバーが見送る。飛行場のすぐそばは海だ。
 
 1970年代後半〜1980年代初め、札幌と紋別を頻繁に往き来していた。丘珠空港(札幌)から紋別へは日本近距離航空を利用した。19人乗りの超小型プロペラ機である。気流のぐあいがわるいとガタガタ音をたて大揺れした。旧紋別空港のあったコムケ湖上空に来ると機体は平静をとりもどす。
小さな窓から見おろすミスティブルーのコムケ湖、紺碧のオホーツク海。なにもない小向(こむかい)地区。着陸するときは帰郷した気分になり、離陸するときは喉が痛くなる。見送りにきた人々が機体の消えるまで帰らないのだ。
 
 ガーンジー島で見聞きしたことすべてを書きたかった。しかし書かないと約束した。ジュリエットは岐路に立つ。タイプライターの音がやかましいと小言をいっていた階下の女家主は、水を打ったように静まりかえった階上が心配になり、こんなに静かなら空襲音のほうがましとつぶやく。
 
 空気のぬけた風船ジュリエットは豪華な婚約指輪を婚約者(米国軍人)に返し、寝食も忘れてタイプライターを叩く。そして完成した作品をガーンジー島の仲間に郵送する。
すぐれた映画は心の風景をあざやかによみがえらせる力を持っている。書かずにはいられなかった。仲間だけに読んでもらいたかった。13年間、「書き句け庫」を連載した者も、作中人物ジュリエットも、理由は同じなのだ。自分の知っている人々について自分を知っている人々に向かって書いた。
 
 郵便物が届き、仲間が読もうとするシーンで映画は終わるべきだった。名作とはそういうものだ。唯一の失敗は大詰で余計なシーンを2つも加えたこと。時間はごく短いが蛇足というほかない。最も集客力のあるのは米国と中国。中国は論外として、やらずもがなでも見たいという米国人のための過剰サービスとも思え、そこだけが惜しまれる。