2019-07-23 Tue
トレイン・ミッション 英米仏合作2018

 
 「トレイン・ミッション」の原題「The Commuter」の「Commuter」を学校英語で習った人は多くないだろう。「通勤者」の意。本邦で2018年3月公開された米英仏合作のサスペンス・アクション映画。
映画館でみたリーアム・ニーソン出演作品は、「シンドラーのリスト」(1993米)、「ロブ・ロイ」(1995米)、「判決前夜」(1996米)、「レ・ミゼラブル」(1998米)、「ラブ・アクチュアリー」(2003英米仏合作)、「キングダム・オブ・ヘブン」。「ラブ・アクチャリー」と「キングダム・オブ・ヘブン」(2005米)はリーアム・ニーソンが目当てではなく、主演も彼ではなかった。
 
 2005年あたりまでの米国映画は古き良き時代の映画ファンの鑑賞にたえる作品もまじっていたが、以降、本邦に輸入されるのはコンピューターを駆使するCGものだらけになり、映画館でみることはなくなった。2010年からWOWOWを視聴しはじめ、これはと思える作品を選んでみてきたつもりなのだが、当たり外れはある。
 
 リーアム・ニーソン主演の「アンノウン」(2011)、「96時間・リベンジ」」(2012)「フライト・ゲーム」(2014)、「96時間・レクイエム」(2014)、「ラン・オールナイト」(2015)を性懲りも無くみてきたが、どれもつまらなかった。「96時間」は米国ではなく仏作であるが、脚本、展開、配役など拙劣で、ヒマつぶしにもならなかった。
 
 「トレイン・ミッション」は記憶が間違っていなければことし2月のWOWOWでみた。みなければと思ったのはリーアム・ニーソン主演に因るのではなく英米仏合作で、主要なパーツを占めるスリリングな列車内の乗客のほとんどが英国俳優、おまけにロケーションはイングランド・バッキンガムシャーときている。
5ヶ月しかたっていないのにまたみる気になったのは、7月13〜14日放送された「リトル・ドラマー・ガール」の主役フローレンス・ピューが「トレイン・ミッション」の乗客のひとりとして出ており、せりふは少ないが腕をみせていたからだ。
 
 うまいぐあいに7月21日、WOWOWで再放送された(字幕ではなく吹替え)。車内のシーンが映画の多くを占めるのに時間はあっという間。前回みたとき印象に残った俳優は二度みても印象的。英国俳優にまじってスペインの若い女優(クララ・ラゴ)。こういう女優が存在感をさりげなく発揮すれば映画もおもしろい。
 
 リーアム・ニーソンは元警察官。警察を辞め生命保険会社に就職し、長年つとめたが首になる。列車で彼に儲け話をもちかける女(ヴェラ・ファーミガ)。車内トイレの2万5千ドルは前金、成功報酬は10万ドルと女は告げる。トイレに行き、洗面台下のネジをこじ開けるとショルダーバッグがあり、2万5千ドル入っていた。
 
 断るが妻子に危険が及ぶと脅され、途中駅で降りた顔見知りの老人は信号待ちで突き飛ばされ、バスにはねられる。別の駅で降りる乗客を特定し、気づかれないようにサイコロの発信器をしのばせるだけの仕事というが、うかうか乗るわけにはいかない。途中駅で降りた女から電話があり、ぐずぐずしてるから人が死ぬ、さっさとやれと言われるとなおさら。
 
 この映画の妙味は乗客が握っている。車内で何がおこっているか知らない。そういう顔をしている。ほんとうに知らないから真顔で驚き、疑念を持つ。ヘタな米国俳優なら知らない顔すらできていない。そういうハラを示せないのだ。驚き顔もわざとらしい。安直に演技するから芝居がダレる。
 
 航空機、船の長旅客と乗車時間の短い列車の乗客は気持ちが異なる。通勤列車には、期待に胸ふくらます乗客も、時間のつぶしかたを知っているといわんばかりの自慢顔する乗客もいない。修学旅行帰りの女子高生のように全員が爆睡しているわけでもない。
安直な演技というのは、通勤列車ではなく自宅のリビング、あるいは行きつけの居酒屋にいるような芝居である。心得ちがいもはなはだしい。
 
 バカ高い製作費をかけたから良い作品ができるというものではないだろう。低予算でも見せ場はつくれるし、腕のみせがいはある。英国映画の長所はそこにある。英国のすぐれたスタッフ・俳優はひと味、ふた味ちがう、見知らぬ乗客がドラマを盛り上げ、時にユーモアをみせて期待にこたえる。俳優の真骨頂である。
 
 リーアム・ニーソンはアイルランド出身、バッキンガムシャーがロケ地となり、英国やスペインの選りすぐりも共演し、車内撮影はやりがいがあったろう。列車が走り出して大詰にいたるまで息もつかせぬ展開。
アクションにも工夫があって米国人は満足するだろう。米国人をバカにしているみたいだが、米国人以外もそれなりにたのしめるアクション。
 
 上映時間は約100分。この手の映画の詳細を述べる必要はない。この先みるかもしれない人に顛末を話すのは愚の骨頂というほかありません。