2019-05-08 Wed
嘆きの王冠
 
 「Great Britain」の「ダンスタンバラ城&アニック」に記したように2017年春「嘆きの王冠」7部作のうち6部をみて評を書こうと思いはしたが、デヴィッド・スーシェとアントン・レッサーのうまさに圧倒され筆が怖じ気づき、せりふの多さと深刻さに疲れはて、書きそびれてしまった。
いまも十分な態勢はととのっていない。しかしこのままでは結局書かず終いになるので書くことにした。
 
 「嘆きの王冠」(The Hollow Crown)は2012年と2016年英国で放送されたテレビ映画だ。京阪神地方では2017年4月8日〜5月26日まで7部作を週毎に1部作づつ7週間、1日2回「テアトル梅田」で上映された。
7部作は「リチャード2世」、「ヘンリー4世パート1」、「ヘンリー4世パート2」、「ヘンリー5世」、「ヘンリー6世パート1」、「ヘンリー6世パート2」、「リチャード3世」。「リチャード3世」を除いて「百年戦争」(1337−1453)歴代の王と諸侯などを描いたシェイクスピアの名作である。映画の「ヘンリー5世」、「リチャード3世」は戦闘シーンが多い。
 
 7部作で上映時間が最も長いのは「リチャード2世」の148分(ほかは116〜138分)。ウェールズ西端の町セント・デイヴィッドにある聖デイヴィッド大聖堂がリチャード2世の居城として使われている。外観・内部ともに見事。
ベン・ウィショーのリチャード2世は終盤イエス・キリストを想起させ、演出はおもしろかったのだが、シェイクスピア脚本そのままを通したので、セリフ内容はいかにもという感じで聞かせどころはあるとして、冗長となっている。字幕をたよりにしていれば疲れるだろう。
 
 「リチャード2世」でヨーク公エドマンド・オブ・ラングリー(リチャード2世の叔父)を演じたデヴィッド・スーシェはいうまでもなく「名探偵ポワロ」のポワロ。アニック城主ノーサンバーランド伯爵ヘンリー・パーシーはデビッド・モリシーがやった。
エクセター公トマス・ボーフォート役のアントン・レッサーは近年、オクスフォードを舞台とした英国ドラマ「刑事モース」の警視正をやっている。「嘆きの王冠」の「ヘンリー5世」、「ヘンリー6世パート1」、「ヘンリー6世パート2」と3回連続出演し、存在感を示した。
 
 王は主役になりにくい。威厳をあらわすのは難しく、英雄の勇敢を表現するだけではシェイクスピア劇とはいえず、劇中のリチャード3世のように冷酷さを過剰に表出するだけでは能がない。敗死直前のリチャード3世が叫ぶ「馬をくれ、馬のかわりに王国をくれてやる」は、単に切羽詰まって叫ぶだけで客の胸にずしんと響くかどうか。やけくそでもハラが要る。
 
 シェイクスピア役者といわれた人たちが演出も含めて戦陣の王を敬遠してきたのは、広大な戦場は舞台に向かず、映像の迫力にとうてい及ばないからだ。そして映像であっても、戦闘シーンは王としての仕所が少ない。シェイクスピアは読まれるために脚本を書いたのではない、演じてもらうために書いた。
実在の王より架空の王のほうが劇にしやすい。誤った決断を下して苦悩する王である。後悔の念にさいなまれたリア王は荒野をさまよう。王についてきた道化が気安めと追従をいう。荒野も道化も孤独の象徴である。シェイクスピアは孤独を重層的に描いているのだ。
 
 シェイクスピアが思い描いたのは、王の強さより弱さ、傷つきやすさであり、そういう王であればこそ主役となりうる。英国人の意識をゆさぶってきたのは人間の弱さだ。
王は自らの懊悩や煩悶を国民に顕示することはできない。親愛の情を惜しまない王でも、同情されたり侮蔑されることがあってはならない。すくなくとも20世紀半ばまではそうだった。
 
 役者の真骨頂は演技ではなく、役柄の人間を生きることである。演じていると観客が感じれば芝居の評価は下がる。熱演などという評は、いっぱしの役者なら問題にしないだろう。
舞台であれ映像であれ、観客の息がいつのまにか役者の息に合い、みじろぎもせず固唾を飲む。はじまったと思ったら終わっている。よくできた芝居とはそういうものだ。熱演と感じさせるような演技は演技過剰にほかならない。
 
 「嘆きの王冠」でヘンリー5世をやったトム・ヒドルストン、リチャード3世をやったベネディクト・カンバーバッチ。ふたりが共演した「戦火の馬」の将校役はすばらしかった。その前からそれなりに評価していたけれど、主役に抜擢されるとどうなるか。
 
 脇役のときには思いも寄らなかったプレッシャー。役にもよるが夜もおちおち眠れないだろう。はりきると芝居が上滑る。力むとクサくなる。そうならぬように自分に言い聞かせても、セリフをつづけると、力の要らない場面で力が入る。脇役にはそうそうたる先達がそろっているのだ。
 
 しかしそういうことを経験して役者はうまくなる。自分の不足に気づくし、経験を積むからだ。トム・ヒドルストンは水準に達していた。百年戦争の「アジャンクールの戦い」(1415)の戦闘前、不利な戦いをせざるをえない覚悟を述べ、諸侯を鼓舞するシーンを見事にやりとおした。あれは誰であったか、シェイクスピアは筋肉だ、鍛えれば上達すると言ったのは。
 
 ベネディクト・カンバーバッチは悪役リチャード3世は適役。誰にでもわかる悪役を演じるのは難しいことではない、善悪を判別しがたい王、懊悩とどまらぬ王、もしくは貴族として次の機会を楽しみとしたい。英国はさすがにシェイクスピアの国、「嘆きの王冠」はミステリードラマのようなおもしろさに満ちている。
 
 映画の場合、役者は監督や美術、共演者を賞讃し、監督は役者を賞讃する。何日も凍えそうな荒野でロケを共にしたのだ。寒中泥水にまみれるシーンも共にした。剣を交えるシーンは慎重かつ猛々しく稽古を積んだろう。
落馬するシーンはスタント任せとしても、冷たい泥水は衣装に沁みる。舞台で経験しない貴重な体験を共有する。役者、監督などが互いを称えるのはそういう経験あってこそ。背景にあるのは連帯感。
 
 それにしてもデヴィッド・スーシェのヨーク公やアントン・レッサーのエクセター公にしびれる。急流にもならず、さらさらとも流れず、深いのに透明感があり、磊落自在。
D・スーシェの場合、甥リチャード2世のために尽力するが及ばない。A・レッサーの場合、騎士の忠誠と勇猛果敢を発揮しつづけるが報われない。責務を果たせば自分を納得させられるだろう、死という代償を支払っても。明快に生きつつも行き場のない心境を見事に表現する役者に感嘆するばかりである。彼らの芝居は急所に届く。
 
 顛末を知っているからミステリーにならないと考えるのは早計。脚本の行間に散らばる、登場人物の隠された思いを役者がどのように表現するか。
さりげない目。きらりと輝く目。曇る額。ひそめる眉。落胆する肩。意外な顔。歪む顔。王や諸侯が発することばの真意を見極めようとする目、あるいは自らの内面をみる目。自分で見ることのできない私自身。だから急所に届くのだ。
 
 すぐれたドラマは感動のみならず発見と確認をもたらし、ときには一服盛られたような気分になる。深みのある人間関係。過去が暴かれ、未来を暗示してもなお解明されない謎。歴史が証明しているなどと思うのは大間違いである。
 
 何週間にもおよぶ膨大なことばの嵐が過ぎ去った後のような疲労を感じた。清々しさより疲労感がまさり、それでも、みるは一時の損、みぬは一生の損と思えるのがシェイクスピアなのだ。
 
 
             「嘆きの王冠」の一場面 アントン・レッサーの「エクセター公」