2020-10-08 Thu
野望の階段とハウス・オブ・カード
 
 1990年代だったか、某放送局で放送された英国の連続テレビドラマ「野望の階段」(原題 ハウス・オブ・カード)をみて、さすが英国の俳優と感心した。主人公の保守党院内幹事長フランシス・アーカートをやったイアン・リチャードソンの芝居がよく、時々カメラに向かって視聴者に語りかける表情、目、クチぶりにしびれてファンになってしまった。目はクチ以上にものを言う。
 
 吹替えの西村晃も顔がどことなく似ており、声の調子がぴったりという感じで、ほかの声優は誰がやっても西村晃には遠くおよばない。放送する側の見立てもよかった。吹替えドラマは役者と声優がそろうとすばらしいものになる。「すばらしい」を連発するとトランプになるけれど。
 
 米国版「野望の階段」=「ハウス・オブ・カード」(WOWOW)もなかなかのもので、主役フランシス・アンダーウッドのケヴィン・スペイシーがいい。と言いつつイアン・リチャードソンと較べている。
院内幹事長の老獪ぶりを見事に演じたイアン・リチャードソンは見るからにアクが強く、しかしそういう表情を隠す。それをいやになるほどうまく演じている。役者としての格に差はないが、芸の質、うまさの質が異なり、目だけで芝居できるイアン・リチャードソンは永く記憶に残る。
 
 それはそれとして、「ハウス・オブ・カード」がシーズン3の半ば、夫婦間のもめごとを流し出したときは退屈きわまったが、シーズン4あたりからおもしろくなった。
紛らわしくも滑稽で、しかし凄みのあるかけひき、政治家やスタッフの裏の顔。ライバルをつぶしてゆく手練手管。譲歩しない相手との生々しいやりとり。状況は複雑、人間の喜怒哀楽は単純。生態は混沌、ドラマはリアル。
 
 すぐれたドラマは現実のごとくである。そう思わせてこそドラマであり、役者の本懐であるだろう。
原作は同じでも、「野望の階段」がおおむねサッチャー時代を、「ハウス・オブ・カード」がトランプ時代の前後を背景として政治家の陰謀、スタッフの暗躍、メディアのせこい計略、悪意から善意、正義の行方までを、破綻と克服、失敗と挽回をくりかえしながら描く。
 
 人は過去の幽囚であり、過去は人の幽囚である。過去は現在に影響を及ぼし、何人も過去から逃れられない。過去の幽囚であることをどこで追懐させるか、どのように描き出すか。幽囚は未来の行方を定めるのだろうか。それをうまく描けるのだろうか。ドラマの深浅、優劣はそこで決まる。
 
 能力の高い人間は、ことに米国においては能力の高さゆえに見返りが大きければ挑戦的でアグレッシブ。うますぎる話に乗らないのは当然として、ひるめば臆病とみなされるから、それは避けたい。ときとして劇薬もためらわない。邪悪な者はそういうところに目をつける。いかにも米国的。
 
 両作品に共通しているのは脚本、演出が練り上げられていること。うっかり見過ごしたり聞き逃したりすると妙味が半減するので、リラックスしてみる類のドラマではない。「ハウス・オブ・カード」には長い伏線のすえの死もあれば、主人公にかぎりなく忠実なシークレットサービスの呆気ない死もあって惜しまれるけれど、そういうドラマだからみたくなる。
 
 イアン・リチャードソンはエディンバラ出身。舞台で活躍し、数多くの映画やテレビドラマに出ている。可能なかぎり出演作をみてまわったが、「野望の階段」のフランシス・アーカートに勝るものは見当たらなかった。生涯の当たり役である。
保守党のために最大限尽力し、いよいよ入閣と思っていたのに大臣に任命されず、首相に仕返しする。獅子身中の虫。周到にして陰険。この野郎と思っても憎めないのは、毒舌と機知、英国流の皮肉、ユーモア、芝居のうまさによる。
 
 欺瞞に笑いという魔法の粉をまぶして完璧な芝居をされては、みる側の敵視が吹き飛び、化学変化をおこして感銘に変わるから役者は恐ろしい。
役にのめりこむのは悦楽である。作家や演出家にのめりこみ、全作を読破するのが愉悦のように。惜しむらくは英米の役者に差があることで、ケヴィン・スペイシーは芝居がうまい、が、ロビン・ライトは監督業に余念がないとして、その割りには芝居の質が落ちた。
 
 英国のドラマのように適度なユーモアが散発すればまだしも、米国ドラマは視聴者サービスと思っているのか、どうでもいい濡れ場とみえすいた笑いが登場し、先を急ぐ視聴者は録画映像を早送りしたくなる。安物の演出は逆効果、失笑もの。
 
 元々、品のない目をしていれば話は別だが、そこらへんの与太者じゃあるまいし、ほんとうに品がなくなってしまえば芝居はつぶれる。
キツネは決してずるがしこい目にならない。獲物を捕らえるのが生活であり、当然の所為。目はいたって平静。キツネのようにずるがしこい目は童話の挿絵である。イアン・リチャードソンは相手を陥れるとき平静を保ち、私たちに向かって話すときだけキツネ目になることがある、挿絵を見せるために。
 
 海外ドラマを日本でリメイクして放送する局もある。すぐれたドラマは脚本演出役者によって可否が決まり、配役は特に重要。層が薄く貧弱な日本の俳優にやらせるべきではない。「野望の階段」のようなドラマの出演者は演技力のほかに貫禄、ふてぶてしさなどが備わっており、猥雑な人間関係のなかで華麗、柔軟、剛健、陰翳、覚悟を巧みに表現する。要するに魅力的なのだ。
 
 佐分利信(政治家)、内田朝雄(政治家)、柳永二郎(政治家)、佐藤慶&夏八木勲(政治家スタッフ)、宇野重吉(老編集長)、二谷英明(主幹)、信欣三(ベテラン記者)、岡田茉莉子(女記者)、13代目片岡仁左衛門(大富豪)、進藤英太カ(財界)、山内明(財界)、岡田英次(医師)、堀雄二(捜査当局)、戸浦六宏(刑事)など多士済々の昭和は遥か彼方。
 
 セリフをおぼえて役者稼業が務まるなら苦労はいらない。ことばは生活、立場、状況からそのつどにじみでるものだ。ことばのやりとりは噛みあうこともあれば、ちぐはぐになることもあり、噛みあわないシーンを自然に表現するのが役者の本分。一本調子のセリフは宙に浮く。
ダイコンは相手がセリフを言うときも、予期せぬことを言うときでさえも、何を言うのか知っているような顔をする。そういう俳優が掃いても掃ききれないほどいる。現下の日本は一夜城のような俳優、演出家、脚本家の吹きだまりである。
 
 「ハウス・オブ・カード」はみているが、英国版「野望の階段」をみていない方、みる意欲があればアマゾン・プライム会員は無料視聴可、レンタルという方法も。時間をさいてまでと思うあなた、みるは一時の損、みぬは一生の損ということもあります。
 
 西村晃で思い出すのは1980年代後半の新高輪プリンスホテルグランドフロアの広いカフェ。玄関を入ると、全面ほぼガラス張り、庭を一望できるカフェが正面に見えた。カフェ中央テーブルの真ん中に西村晃がいて、にこやかな笑顔が飛びこんできた。格さんの伊吹吾郎、八兵衛の高橋元太郎と歓談する黄門さん。
 
 イアン・リチャードソンも西村晃もある意味特異な役者だった。性格俳優というのではないが、鋭い役もこなすし、品のある役もやる。西村晃は茶人も金売り(吉次=炎立つ)も柳生石舟斎もやった。存在感があった。
水戸黄門を本放送でみたわけではない。西村晃没後何年かたって再放送でみた。亡くなられて再認識する。そして懐かしくなる。彼の葬儀委員長は約束どおり特攻隊仲間の千宗室(玄室)だった。古き良き時代の話である。
 
 イアン・リチャードソンの「野望の階段」を字幕付きで最近久しぶりにみて、うまさにため息が出る。
若く有能で才気煥発、魅力的な女性を二人(シーズン1&2)を巧みに籠絡するフランシスの手法は、寒々とした国の連続ドラマの脚本に何が足りないか示唆している。
 
 シーズン2で首相になっているフランシスの強気の経済政策をめぐって国王(マイケル・キッチン=刑事フォイル)と対立する。国王は貧しい弱者に配慮したいのだ。英国王は憲法の定めたとおり政治にクチ出しせず、手を振っていればよいとフランシスは陰口をたたく。世論調査では国王優勢。国王は首相の政策転換を望んでいる。
 
 以下は強硬姿勢を貫こうとするフランシスの独白。
 
 何食わぬ顔で進めるパワーゲーム。互いの仮面の奥深く、名誉や誇りの奥深く、欲情も愛情も届かぬ奥深くでゲームは進行する。つかみとり、しがみつき、歯を食いしばって食らいつけ。決して放すな。永遠につかみ続けろ。
 
 
                     イアン・リチャードソン(1934−2007)