2020-09-04 Fri
エメランスの扉 独ハンガリー合作 2012
 
 2012年に製作されたドイツ・ハンガリー合作映画「エメランスの扉」(原題 The Door)は日本未公開である。数年前WOWOWで放送され、ヘレン・ミレンとマルティナ・ゲデックがよかったのでダビングしたものを最近またみた。
 
 1960年代後半もしくは70年代前半と思われるハンガリーの小さな町。60代半ばのエメランス(ヘレン・ミレン)はマッチ箱のような小さな自宅(借家)前の歩道にうづたかく積った枯葉を、どんどん降ってこようが積った雪をひっきりなしにホウキで掃く。注意深くみると微妙に掃きかたと場所をかえる掃除魔。なぜそうなのか、孤独で偏屈だからである。
 
 隣家に引っ越してきた中年作家マグダ(マルティナ・ゲデック)にエメランスは自分を雇ってもらいたいと申し出る。マグダは亭主と二人暮し。執筆と家事の両立はできず、料理も苦手なようで、エメランスは渡りに舟という按配。
初対面の老女にマグダが警戒心を持たなかったのは、エメランスの率直な言動、不満を隠そうとしない態度を苦労人で正直者の証と直感し、早速雇い入れる。
 
 ヘレン・ミレン、マルティナ・ゲデックに共通しているのは、低予算の作品であっても手を抜かないということだ。いや、むしろ小品であるがゆえに芝居のしどころを見いだすというタイプ。ギャラが安いから安直な芝居をするという俳優は見習いなさい。
出演料は安くても、英国、ドイツの名女優2人の作品にかける思い、空気が伝わってくる。「カレンダーガールズ」(2003英米合作」、「黄金のアデーレ」(2015英米合作)のヘレン・ミレンをみれば誰にでもわかる。
 
 エメランスは自分の気に入った置物をマグダの家の書棚などそこかしこに飾り立て、マグダの亭主は勝手すぎると立腹し、解雇せよとマグダにせまるが、エメランスのつくった料理を食べ気が変わる。こんなおいしい料理を食べさせてもらったことはないという顔。料理が上手なら雇用者はめったなことで手放さない。
 
 原題「The Door」は少女のころから長年にわたって心を閉ざしているエメランスの象徴であり、彼女は相手が誰であろうと扉から一歩もなかには入れないのだ。遠路はるばる彼女を訪ねてくる者がいる。
そういう人に対してもエメランスは、マグダの家を自分の住まいとして半日借りたいと提案し、マグダは認める。ところが訪問者は予定をキャンセルし、エメランスは烈火の如く怒る。訪問者とエメランスの関係は徐々に明かされてゆく。
 
 エメランスは以前仕えた家の陶磁器の名品を秘蔵しており、ほかにも隠さねばならないことがあって人を招き入れない。しかしそんなことはたいして重要ではない、彼女が隠したいのは自分自身なのだから。そしてほんとうに信頼できる人間にだけは自分を知って欲しいのだ。
 
 ほとんど苦労知らずのマグダと苦労の連続のエメランス。マグダ役マルティナ・ゲデックは、「マーサの幸せレシピ」で子持ちの料理人(主役)を見事にこなし、「リスボンに誘われて」(2013独・スイス・ポルトガル合作)でジェレミー・アイアンズと共演、魅力的な視力検査技師をやった。男を癒やす雰囲気にも魅せられる。リスボンに誘われての製作費はわずか770万ユーロという。
 
 亭主に収入があって、自由業の物書きという境遇のマグダはエメランスからみればうらやましい限りということになる。めぐまれた女性は他者に寛大であらねばならない。物書きの真骨頂は自分と相容れない相手を理解し作品に生かすことである。
人は往々にして心地よさに身を委ね、心地わるくなれば捨てるけれど、ほんとうに必要な相手は決して甘っちょろくないし、厳しいところもあるのだ。人は親密になれば遠慮なく肝心なことを言う。
 
 心の鍵を渡さないエメランスもマグダと衝突しながら次第に心を許す。主人公は華やかさと無縁。しかし暗澹たる気持ちにならずにすむのは、時に激しく感情をむき出しにしても愛を忘れないからだ。
終局も近づき、良家の奥さんが何をたわごとをという感じで悪態をつきつつ、うれしくてたまらない。それでも自分を曲げないへそ曲がり。さすがにそういう表現が巧み。
 
 巷間あふれる生ぬるいドラマとちがってやけどしそうであるが、重苦しさや閉塞感はなく、ヘレン・ミレンとマルティナ・ゲデックのうまさ、きっぱりした生き方が一抹のすがすがしさを残す秀作である。