2020-07-10 Fri
天国でまた会おう 仏2017
 
 映画館に行けなくなって半年が経過しようとしている。その間、WOWOWで放送された外国映画は数作品を除いてみるべきものがなく、長びく巣ごもり生活の楽しみは以前ダビングした洋画をみること。
 
 4月にジェラルディン・マクイーワンの「ミス・マープル」などミステリーやスリラーを何本かみて、2度みているのに「バンク・ジョブ」(2008 英)をまたみて、5月は「プライドと偏見」(2005 英仏米合作)、「いつか晴れた日に」(1995 英米合作)をみて、「マリリン 7日間の恋」(2011 英)、「暮れ逢い」(2014 仏ベルギー合作)をみた。
英国の文芸作品はイングランドのカントリーサイドで撮影がおこなわれるから景色をみるだけで清々しくなる。
 
 6月に入って「心の旅路」(BSプレミアム1942米)をみる。撮影セットは新劇の舞台みたいでちゃちだし、音楽もよくないが、主役の男女がうまかったので最後までみることができた。
WOWOWの「トラフィッカー 運び屋の女」はストーリー自体は平凡として、やむにやまれぬ事情で犯罪に手を染め、奇跡的に生き残る若い母親の描き方と主役がよかった。
 
 6月も不作かと思っていた矢先、6月15日に録画した「フリーソロ」をみた。2018年米国のドキュメンタリー映画である。はじまった途端、伴侶が「ヨセミテだ」と歓声をあげた。花崗岩の巨大な一枚岩を1976年に間近でみているからだ。
フリーソロ=素手で切り立った断崖をよじのぼる危険きわまりないロッククライミングは恐怖。アレックス・オノルドがヨセミテのエル・キャピタン(約970メートルの直角岩)を命綱なしで登り、2時間23分46秒の最速記録を打ち立てた。
 
 次にみたのは「パリに見出されたピアニスト」(2018 仏&ベルギー)。ランベール・ウィルソン(1958−)がパリ国立高等音楽院のディレクター役で出ている。ストーリーはおなじみの復活劇で平凡だったけれど、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番のよく知られたパーツがラストシーン近くで演奏され、不朽の名曲が胸に沁みた。
 
 2組の夫婦が舞台仕立てで丁々発止のやりとりをする「おとなのけんか」(2011 独仏西ポーランド合作)をダビングBDで久しぶりにみた。見せ場はわかっていても魅せられてしまう。脚本・演出も冴えており、クリストフ・ヴァルツとケイト・ウィンスレット、ジョン・C・ライリーとジョディ・フォスターが役者の何たるやを示す出色の芝居をしている。
 
 6月24日、「天国でまた会おう」をみた。これぞ映画という名作なのに、巷間出回っている寸評は讃辞をおくっているが、要(かなめ)を評していない。
原作(ピエール・ルメートル 平岡敦訳)のこれでもかと言わんばかりの知識講釈の羅列にインテリジェンスを自認する読者は心をくすぐられるだろう。しかし人物描写が冗長、説明的、煩雑で、若年層には睡眠導入剤の代用になるだろうが、中高年は寝つきがわるくなる。原作は1918年11月、1919年11月、1920年3月の3部構成。
 
 「天国でまた会おう」の原題は「Au Revoir la Haut」。「Haut」は高所とか頂上の意、「Revoir」は再会するの意。「Au Revoir」(オルヴォワール)はフランス語の挨拶でおなじみの「さようなら」。
 
 映画のほうは、1918年11月第一次大戦の終了間際、仏独塹壕戦から始まり、戦闘シーンは10分少々だが、そのなかにいくつかの伏線が見え、おぼえようとしなくてもおぼえられる。
戦友2人は戦後間もないパリで政府と実業家をペテンにかけようと画策する。原作の登場人物は多岐にわたり複雑であるが、映画は人間を絞っている。塹壕のあくどい元上官も関わってくるにもかかわらず滑稽味と温かさを保ちながら進行。
 
 交戦で顔面下部に大きな損傷を負った若い男、中年の戦友、彼らに協力する少女、実業家の邸宅のメイドなど役のハラをつかんだ俳優による傑作。若い男のこしらえる仮面が効果をもたらす。
 
 次々と出てくる仮面で思い出したのは1992年アルベールビル冬季五輪に開会式である。式がはじまったとき、ひとりの少女がハトを宙にはなってフランス国歌を歌うと、おそろしく長い足の竹馬に乗った何人もの人たちがあらわれ練り歩く。そして幾つもの空中ブランコが舞い降り、華麗なワザを縦横無尽に披露する。子どもたちが夢にまでみたストリート・パフォーマンスの極致。感動してからだがふるえたのをおぼえている。
 
 「天国でまた会おう」の見事な美術、衣裳、演出は映画のすばらしさを顕現している。原作がどれほど秀逸で、いかように想像を促すとしても、神をあざむくほどの想像を読者にもたらせるだろうか。原作の描写を意図的にカット、もしくは修正し、私たちの想像力を創造するかのような映像をみせて説明を省き、みる者を堪能させ、推理させる。映画はそうでなくては。
 
 仮面の下に素顔がある、そう思うのは構わないが、仮面をつける若い男の苦悩と対照的にドラマはユーモラスだ。そこがうまい。どういうシーンにどういう仮面が使われるか。もうすこし見ていたいと思っても仮面はすぐに変わる。仮面の製作過程を再現して映像に取りいれてもいる。製作中、仮面が取り憑いて時の経つのを忘れたであろう年配の女性。
 
 大戦の犠牲となった膨大な兵士の墓に関して政府の下級役人が出てくる。まじめで頑固。寓話をまぜながらのコメディタッチも自然でスムーズ。背景に流れる音楽のひとつはテレビドラマ「赤ひげ」(2017年11月放送)のBGMにどこか似ている。ボヨヨンという音の入るあれである。深刻なのにコミカル。
 
 主役の中年男の衣裳もみどころ。鮮やかな黄色、あるいは青の上下を着こなしている。ちんどん屋に見えないところがステキ。メイド役は「嘆きの王冠」でヘンリー5世の后となるフランス王女をやっていた女優。イングランドに嫁ぐため英語を学習する短い場面に出ている。王女はメイドもやり、雰囲気も目も見事に変えてしまう。
 
 目を見張り、笑って、泣いて、感心したフランス映画は「マルセルのお城」以来かもしれない。音楽は圧倒的にマルセルのお城が上としても、スタッフが映画に賭ける思いは同じ。
仮面の男は自分の変わり果てた顔を誰にも見せたくなかった、親兄弟にさえ。自分が生きたことの証を残せばよかったのだ。「天国でまた会おう」は劇烈な人生のなかに遊び心をいっぱいちりばめた懐かしい映画である。
 
 
 
                       「天国でまた会おう」のワンシーン