7   2007年7月松竹座 仁左衛門の知盛
更新日時:
2007/07/23 
 
 歌舞伎座で仁左衛門が知盛をやったのは2004年4月。残念ながら見逃した。3年待って、満を持しての見物である。人形浄瑠璃「義経千本桜」全五段のなかでも、二段目の切「渡海屋・大物浦」は「平家物語」そのものを想わせる。
 
 平家物語で語られた新中納言知盛にはたしかに骨太・豪壮な一面もあるが、宗盛の目測違いを見極め、平氏一門の滅亡を天命と感じ、離反者が出てもなお一門のために戦わねばならなかった苦悩と、それらを位置づけ刻み込む透徹した目を持っていたというのが、平家物語作者の知盛像であろう。知盛の「見るべき程の事は見つ」という言葉がそのことを如実に語っている。
 
その言葉の後に「いまは自害せん」といい、海に沈んでいった知盛の胸中を去来したのは何だったのか。そしてまた、知盛をもってしても自らの存在を超える天皇とは何だったのか。
 
 平家物語に題材を得た世阿弥の目に映ったのは、源平盛衰の修羅ではなく、「忠度」の風雅、「実盛」の救済、「敦盛」の哀感である。滅する者を包み込むのは悲壮感だけではない。
「義経千本桜」の作者・二世竹田出雲、並木宗輔(千柳)などの目にも同じものが映ったはずである。台本の妙を得るためさまざまな工夫をこらしていても、舞台からこぼれ落ちるのは君臣の絆、親子の情愛である。
 
 鬼界島に流され、清盛を恨みつづけたであろう俊寛でさえ、鹿ヶ谷で謀ったのは密議だけではあるまい、いいぐあいにきこしめして、「これはおたわむれを」とざれごとの一つも成親にいったはずだ。大きな陰謀のなかにも小さな悦楽はひそんでいる。滅びゆくさだめの者にも、ひらひら散る花の幽玄はないとだれにいえよう。
 
 
 「渡海屋」銀平(仁左衛門)の花道の出。颯爽として威風堂々たるありさまは、格の違いをみる者に感じさせる。役者の風格が芸をかたちどり、芸の力が役者の風格に花を添える。バリトンのきいたほれぼれする口跡と、あたりを払うセリフ廻しは仁左衛門のもの。
「よしまた判官殿にせよ(中略)、おかくまい申したらなんとする」を、さりげなく奥に伝えるようすも上々、義太夫の語りを十分に咀嚼している仁左衛門ならでは。
 
 秀太郎の銀平女房お柳はまずまず。くだけた世話の風合いを表出するのは手練れているが、「どれ、おみあかしをつけようか」のセリフで芝居の局面が変わり、高位女官の品をみせねばならない。この日だけのことかもしれないが、そこのキッパリさが不足した。お柳をうまくやるのは難しく、吉右衛門、團十郎、猿之助など、さまざまな「渡海屋」銀平をみてきたが、満足のゆくお柳に出会ったことはない。
 
 海老蔵代役・薪車の義経は、突然の代役ということと、ガラにそぐわないこともあり、義経のハラが薄く、また、立ち居ふるまいに気品がなく興ざめ。先々こうした役が回ってくることもあるだろう、今後の研鑽と修練に期待したい。今回は冷や冷やものの、いい勉強になったはずだ。
 
 相模五郎の愛之助、キレがあって小気味よい。
それはそうと、13日昼「鳴神」上演後、海老蔵の予期せぬ怪我で急ごしらえの代役。しかも愛之助、鳴神上人初役とあっては、奮闘いかばかりか。
 
 セリフをおぼえるのがタイヘンと人はいうが、自分のセリフだけでなく相手のセリフもおぼえておかねば、いつどこでセリフをいえばよいかわからない。それと舞台の位置取り、相手との間も把握しておかねばならず、夜の部終了後、稽古は朝までつづいたのではなかろうか。楽日終了後、愛之助の達成感はさぞ大きかろう。
 
 
 銀平が白装束となっての知盛の出も、平家の公達の気品と猛々しい武者ぶりを併せ持ち、客席がどよめく。仁左衛門が秀逸なのはそういったことだけでなく、膝を折ってにじり寄り、お柳のそばにいる稚児に低頭するさまと口上が、貴人を敬うハラに満ちあふれ、稚児は魔法の粉をふりかけられたように安徳天皇に変化する。ここをうまくやらないと、幼帝は稚児のままである。
 
 「大物浦」の前、文楽では、渡海屋の裏にまわった義経があらわれ、入水しようとする安徳帝と局(秀太郎)を助けるのだが、歌舞伎にはなく、義経配下(四天王)が二人を確保したところで浅葱幕が降りる。これだと、次の大物浦での局のせりふ「先ほどより義経殿、段々の情にて天皇の御身の上は‥‥云々」がちぐはぐで、見物は何のことかと思う。
 
 安徳帝の、「われを供奉し、介抱せしは知盛が情け、きょうまたわれを助けしは義経が情けなれば、仇に思うな知盛」には胸を打たれる。天皇は権力そのものではなく、権力者に供奉され機能することを明確にしている。すくなくとも吉右衛門、團十郎などの知盛はそうであった。
 
 仁左衛門の知盛はそこがちがった。並木宗輔がこの段に隠していたのは、ひとり天皇のみならず、支援されなければ生活の成り立たない者がいて、支援者が変わるたびに「仇に思うな」といわざるをえず、それは人間の持つ普遍性なのかもしれないということだ。
 
 離反でもなければ裏切りでもない、時の流れに抗うこともできず進むべき道を選ばされてきた者のせつなさ。よしんばそれが自分ではなく、かつて愛した人がそうであったとしても。仁左衛門の思い入れは、天皇も人であること、知盛も安徳帝も名を変えて、いまなお生きていることを示唆している。
 
 前後不順となるが、満身創痍の知盛が花道から出、ややあって、腕の付け根あたりに刺さった矢を抜いてその血をなめるのは喉がカラカラに渇いているからで、上方型の一つである。
歌六の弁慶は、知盛と堂々とわたっていけるハラもあり、セリフ廻しもよく上々吉。
 
 「仇に思うな」と局の自害で張りつめていた心が折れ、三悪道の述懐となる。「大物の浦にて判官に仇をなせしは知盛が怨霊なりと伝えよや」のセリフ、しぐさ、運びも無類のうまさ。笑いにも魂がこもって、万感胸にせまる。
知盛に花があるから哀切もひとしおである。散るのはあまりに惜しいという思いが押し寄せ、熱いものがこみあげてくる。知盛は泣かない、代わりに客が泣くのである。
 
 自死に至る人間の複雑でいいようのない懊悩を、ひらひら散る花を、仁左衛門は見事に体現した。並木宗輔が舞台の袖でみていれば、おそらく唸ったことだろう。
 


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