33   2003年3月南座 夜の部「源氏物語」その二
更新日時:
2003/03/09 
 
  【明石の巻】
 
 明石の巻・第四場は朱雀帝(菊五郎)が登場する。光源氏とは異母兄弟の兄で、先の右大臣の讒言(ざんげん)をきいて光を須磨に配流したのは朱雀帝だった。だが、そのご帝の患った眼病が日ごとに悪化し、洛中では光を無実の罪に陥れたことの罰が当たったとささやく者さえいた。帝の東宮時代、愛する朧月夜の君(芝雀)と光が密通したことを知り、それが許せず光を須磨に流したのだが…。帝は失明寸前の身なのである。
 
 帝の「あの人(光源氏)の明るさ、おおらかさを民が必要としているのだ」のせりふから菊五郎の独壇場、風格の十分さ、せりふ回しのうまさ、思い入れが渾然一体となって、菊五郎のニンにはない崇高さを醸しだしている。幸運にも前方の座席を取れた人は菊五郎の目に注目してもらいたい。重い眼病を患った人の目である。そして、悔やんだ末の曇り顔である。
帝は光に赦免の勅令を出す決意を固めるのだが、赦免状はすでに帝の眼病が悪化する前に帝自らが用意していたのだ。
 
 場面はかわって紫の上(菊之助)のすまい。光の親友・三位の中将(正之助)が赦免状を携えて紫の上を訪ねる。この場での正之助が実にいい。前の場の雲がぱっと払われてお日さまが覗き、明るい光線がさあ〜とさしてきたような感じがした。紫の上は明石での光と明石の君(福助)とのことを仄聞していて嫉妬に燃えているが、悋気のなかに初々しさが出て、光が紫の上からこよなく愛されていることを伺わせる。再会できるよろこびが第一、嫉妬は二番手。
菊之助のこの芸が単なる偶然のものでなかったなら、収穫(もうけ)は大きい。
 
 次の場から愁嘆場となる。明石の君に別れを告げねばならぬ光の衣装の色は紺青(こんじょう)。心が乱れそうだから、わざと落ち着いた紺青にしたのは美術のお手柄。この色ゆえに、これをかなしみ色にしたがゆえに、光のかなしさもひとしおなのである。すでに明石の君は光の子を身ごもっているのだから。
 
 「もしおなかのなかにあなたの子を宿していなかったら、明石の海に身をしずめるつもりでした」の明石の君のせりふに対して光は凛然という。「そのようなことをいってはいけない」と。
ここで再び武蔵の力強さが出る。そこがまたいい。新之助はこの短いせりふを実にやさしくいう。しかしそれは、はげしい力のみなぎったやさしさなのだ。
 
 ここはこの芝居の大きな見せ場である、それゆえ、光の貴人としての気高さに武蔵の力強さが混淆することで芝居が大きくなる。気高さと力強さ、どちらが出しゃばっても按配が悪い、両者が仲のよい男女のように同衾、両立してこそ芝居に潤いと面白さが保たれるのだが、そのあたりのツボを新之助は修得したもののようである。
明石入道(団十郎)が、「都からのお迎えのご一行がご到着!」という知らせをもってきたときの光の複雑な表情といったらなかった。25歳でこういう顔をつくれる役者の末は…すえ恐ろしいというも愚かなり。
 
  【京の巻】
 
 入京した光が御所で帝と対面する。賢所の中央に鬱金(うこん)に近い黄金(こがね)の衣をまとった帝。光源氏の花道の出はあでやかな花紫の衣装である。この場は省略してもかまわない。そういった場面はこの場にかぎらず幾つかあって、新之助の顔と衣装をみるだけという場は次回から切ってもよいのではあるまいか。その分、明石の君との濡れ場や、物語性を印象づけるシーンを増やしたほうがよいように思う。シーンとシーンがむやみにつながったかと思うと、ぶつ切りになったりもする。これでは物語性は薄れ、新之助の顔見世である。
 
 演出側の意図としてそういうことに眼目があったとしても、やはり、一対の男女をストーリーとして追うことを芯に置くほうが感銘は深かろうし、この狂言の生命も長かろう。また、この芝居を絵巻物風に描くことが本来であったとしても、絵巻にも物語は存在するのである。
 
 再び紫の上のすまい。季節は秋、背景に秋の七草風の絵、とりわけ桔梗とすすきが美しく描かれている。紫の上に仕える右近(萬次郎)の姿に気品としな、涼やかさがあって、この場に深まりゆく秋の気配をもたらした。いくら大道具が美しくとも、萬次郎のハラに秋がなければ秋は来ない。役者のハラに秋が存在するから、見る者も秋を感じるのである。だから歌舞伎はこわい。そしてまた萬次郎の口跡は、発声そのものが自然な女のそれなのである。
 
 光の衣装の色は白緑(びゃくろく)、なんともいえない上品な薄い緑。「その一」で藤が新之助にもっとも似合っていると記したが、この白緑と甲乙つけがたい。オールドファンのなかには、祖父・十一世団十郎の面影を新之助に重ね合わせた方もおられよう。私は芸の力ということに思いをはせていた。
どんな名優でもいきなり名優であったわけのものではない、もともと身体に潜在した芸にみがきがかかって名優となったのである。伝えようとして伝わらないこともあり、伝える人がいなくとも伝わることもある。芸を司る神々の気まぐれは役者のそれに似て、突然現れては人々を驚愕させる。
 
 京の巻・第三場は大坂・住吉大社。住吉に参詣に来た明石の君と光、紫の上一行とが行き違う。両者は互いに舞台、花道に分かれ見つめ合う。花道七三で立ちつくす明石の君(福助)の茫洋とした可憐さが秀逸。福助贔屓なら、この場だけ見に南座まで足を運んでも満足する出来。
 
 次は再び明石入道館。入道は都に上る妻、娘(明石の君)、孫娘(光と明石との子)に別れを告げ、山の庵に身を隠し、求道者になる旨の決意を述べる。「仏の慈悲にすがり、みなのことを祈りつづける」というのだ。ここは作者である寂聴さんの思い入れもあってか、ニンではないが団十郎、澄みきった心を十分表に出した。色好みの光源氏、仏にすがろうとする明石入道、このふたりは別々の人ではない、かつては作者の心に棲んでいた同じ人である。
 
 そろそろ大詰も近い。光は紫の上に、明石の君との間にもうけた子の袴着の担い役になってはくれまいかと頼むのだが、そのときの、さりげないようでいて毅然たる姿勢、きっぱりとした物言いに光の決意の固さがあふれる。この場も見せ場のひとつだと思う。「あなたはだれに袴着をしてもらったのでしょうか」との紫の上の問いに、「腰のひもは帝に結んでもらった」とこたえる光のせりふが心に沁み通る。衣装の色はやわらかい橙黄色(とうおうしょく)であった。
 
 大詰は雪景色の嵐山、明石の君母子の居宅、雪のしんしんと降るなか、光の花道からの出。衣装の色は鉄納戸(てつなんど)、灰色がかった群青である。光はわが子を都に連れてゆくために嵐山に来た。なさぬ仲のふたり、哀愁のかけらが雪となる。新之助の福助をみるまなざしに宿った一条の光はやさしさの光である。明石の君はいまにも嗚咽がもれそうになるのを、両の袖に口をあててぐっとこらえる。光は決然という、「わたしは迎えにくる。あなたをひとりにはさせない」。最後でもまた新之助、福助の真価が出た。


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