30   2003年7月松竹座 仁左衛門の至芸「すし屋」
更新日時:
2003/07/10 
 
 すし屋は「義経千本桜」三段目の狂言である。いまだかつてこれほど堪能し、感動したすし屋、いがみの権太をみたことがない。近年では鴈治郎、猿之助がすし屋で権太を演じている。鴈治郎は上方型、猿之助は江戸型で演じるといった型の違いがあり、吉野下市(奈良県)のならず者・いがみの権太を江戸風にすっきりと演じるのはどうかという考えもある。歌舞伎は型を重要視するが、それ以上に役者の思い入れを大切にする。
 
 五世幸四郎から三世菊五郎を経て、五世菊五郎が完成させ、それをさらに六世菊五郎が工夫をこらしたのが江戸型。六代目(六世菊五郎)の考えに否やを唱える者のいようはずもなく‥六代目の芸に説得力があったからであるが‥六代目の薫陶を大いに受けた二世松緑がその継承者。上方型の権太は名前のとおり垢抜けしないごろつき風であるのに較べて、江戸型は颯爽として、形の美しさをきわだたせるのが特長。上方型は二世延若の工夫が口伝となって今に受け継がれている。
 
 六代目は世話物も得意にしたが、江戸と上方の世話物はまず言葉が違う。上方言葉をこなしきれない関東の役者が、江戸言葉に仕立て直したことで江戸型ができたのではないかと思うのであるが、それはそれ、それぞれの型に仕所があればそれでよいのである。
義経千本桜・全五段のなかで上演回数の多いのが、大物浦(碇知盛)、すし屋、道行初音旅、河連館(四の切)などであるが、猿之助のニンは道行初音旅と四の切の狐忠信、鴈治郎は器用な人(兼ねる役者)ゆえ何でもこなすが、すし屋の弥助、道行の静御前が本役である。
 
 筆者は義経千本桜を数えきれないほどみているが、すし屋だけはどれをとっても満足しなかったし、勿論、感動したこともなかった。1時間40分という長丁場のすし屋は筋書きや展開の妙に秀でているのに、権太が深手を負ってからの語りになると急にダレはじめるのは、それをおぎなって余りある権太役者がいなかったせいである。仁左衛門はそこが違った。
 
 違ったのはすし屋一幕だけではない、すでに「木の実」の場から仁左衛門の権太は秀逸で、椎の木に石を投げたイキのよさ、小金吾(愛之助)をかたって金をゆすり取るときの無類のうまさ、女房小せん(秀太郎)の小言を鼻白んで聞くウソ臭さ、総じて、溌剌と苦み走った小悪党ぶりが出色のできばえ。これがあるから後のすし屋が生きるのである。
 
 すし屋の前半、権太が母お米(竹三郎)をだまして金を都合してもらう段で、いとま乞いに来たとウソを言うときのセリフ(「遠いところにまいりまする」)も、なんの不自然さもなく意味深長なおもむき(ウソから出たまこと)を持つ。仁左衛門ならではである。
 
 きわだっていたのは女房小せんとの別れの場面。仁左衛門は世話を写実に演じるが、すし屋でもそれは大正解で、猿ぐつわをされ、縄をかけられた女房が花道に行きかけ、ふと権太と顔を見合わせるその一瞬の思い入れが何ともいいようがなかった、仁左衛門も秀太郎も。思わず熱いものがこみあげてきてメモどころではなく、ただただ感動の渦に巻きこまれた。
 
 それからは仁左衛門の独壇場、「今日もあなたを二十両」から「何うろたえることがある」〜「かけてもかけても手がゆるみ、結んだ縄もしゃらほどけ、いがんだ俺が直(す)ぐな子を、持ったも何の因果ぞと、思うては泣き、かけては泣き、後ろ手にしたその時は、いかな鬼でも蛇心でも、こらえこらえし血の涙、かわいや女房せがれめが‥」までのせりふを、あれほどまでの思い入れをこめて語った役者をほかに知らない。
 
 すし屋をみて常にもどかしい思いをしてきた私は、仁左衛門のいがみの権太で瞠目したというべきか。すし屋は、いがみの権太はこうでなくては。無論、仁左衛門は上方型で演じる。客のこころをつかむには、及第点はおろか百点満点でもまだ足りぬ、百二十点以上とって、はじめて客は納得するのであってみれば、歌舞伎役者のなかで仁左衛門だけが客の望みを叶えられるのである。これを書きながら、いまもまた胸がいっぱいになってくる。
 
                     (未完)


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