29   2003年7月松竹座 仁左衛門の至芸「すし屋」その二
更新日時:
2003/07/12 
 
 すし屋は家庭内悲劇である。そういう見方をしなければ歌舞伎は永遠に身近な演劇とはならないだろう。江戸時代、歌舞伎は古典でもなければ伝統芸能でもなく現代劇だった。義経千本桜の作者たちがすし屋の構想を練ったとき、梶原(景時)が何もかも承知の上で維盛の身代わりの小金吾の首を持ち帰るという設定に託した思いは何か、頼朝の陣羽織の裏地に縫いこまれた言葉がそんなに重要であったのか、どうか。
 
 梶原に花をもたせたのは当時の武士社会に対する深謀遠慮で、町人が武士を手玉にとったとあっては、人形浄瑠璃も歌舞伎も上演禁止どころか、作者、座元、関係者一同捕縛されたのではあるまいか。梶原に花をもたせたことの意味は、町人より武士のほうが役者が一枚上であるということを暗に知らしむるためのみせかけに過ぎず、つまるところ、当時の支配階級であった武士に花をもたせているのである。
 
 前述の陣羽織の裏地には維盛を出家させるための数珠が入っている。頼朝がかつて平重盛(維盛の父)に命を助けられた旧恩に報い、維盛のいのちを救うための数珠なのだ。恩には恩で報いる、さすが源氏の頭領はちがう、すし屋の筋書きにそう記すことによって江戸幕府を立てているのだ。時々偵察にくるお上対策はそれでよし、芝居をみにくる見物客はそういう作者の意図は遠から知っている、すし屋の見どころは別のところにある。
 
 いがみの権太はごろつきである、彼は孝行や忠徳に縁がない、しかし、ごろつきの忠孝はふだんは意識下に隠れているのだ。隠れていたものが最後にあらわれ、本来の姿にもどるという権太像を作者はつくった。忠孝は武士だけに顕著なものではない、一寸の虫にも五分の魂、無名の町人といえども、いがみの権太といえども人の子、人の親である、最後には善に立ちかえる、それが作者の言いたかったことではないだろうか。。
権太の父は重盛に恩を受けた、だから重盛の子・維盛を家(すし屋)に使用人としてかくまっている。権太はそういう家庭の事情を大詰で悟り、自分の女房、子供を維盛の妻子の身代わりに仕立て、梶原に差し出すのである。理に叶わないのだが、理に叶わぬがゆえにあわれなのである。
 
 気が動転した父親にはそれ(実は権太の妻子であること)がみえない。みえないのは動転のせいばかりではない、権太の日常が日常だけに実の父親からも信用されていない、それが悲劇の原因となるのであってみれば、信用は大切という御託をならべるとすし屋の悲劇はみえてこない。喜劇を演じるには積み重ねなど必要としない、しかし悲劇は積み重ねと段取りを要する。
 
 家族は様々な出来事を長年積み重ねることで互いの理解を深めることもあれば、齟齬をきたすこともあり、一概にどうこういえない面はあるが、好むと好まざるとにかかわらず家族は多くのものを、とりわけ哀歓を共有する。積み重ねも哀歓もないのなら悲劇は生まれない、悲劇は家族の営みの積み重ねという親から生まれる子供なのだ。
 
 親に殺される子もあわれであり、子を殺す親もあわれであり、そういった家庭内悲劇が繰り返されるのもあわれである。寺子屋の松王丸は武部源蔵にわが子の首をはねさせ、首検分でその首を菅秀才の首に相違ないという。松王役の仁左衛門はそれをハラでやる。
そんな演技はとおりいっぺんの演技でできるものではない、演技でやっても見物の心に強く深く訴えることはない。子を殺された(松王の場合はわざと殺させた)親の気持は演技でなくハラでやる、それができるから仁左衛門の芸は至芸なのである。
 
 客を泣かせるより笑わせるほうが難しいなどときいた風なことを云う人のいることは私も承知している。歌舞伎は新劇や映画とちがって表現箇所が少ない。歌舞伎は省略の演劇であり、省略されたところは想像するか台本を調べるほかなく、台本は殆どが歌舞伎作者のものか文楽のものかである。そして仁左衛門は台本の読みがきわめて深い。表現力以前に読みの深さがある、それが仁左衛門のハラとなっているのだ。
 
 すし屋のストーリーは見物の多くが先刻承知で、承知の上ですし屋をみている。百点満点の演技をする役者が見物の感動を呼ぶことのできないわけがそこにもある。仁左衛門が見物の感涙をさそうのは台本の読みの深さとハラゆえであり、それなくしてはすし屋の悲劇性は実らず、竹田出雲、並木千柳、三好松洛合作による義経千本桜は失敗に終わる。
 
 舞台の上で、仁左衛門のハラがある種の「気」となって見物に伝わる、伝わってくるから客席は水を打ったような静寂につつまれる。見物が仁左衛門の発した気を共有する。そこが映画やテレビとは異なる世界なのであり、歌舞伎の魅力なのである。
すし屋、寺子屋、仁左衛門についてはいずれ別稿で書く日もありましょう。まずはこれまで。


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