27   仁左衛門の心技体(一)
更新日時:
2003/09/08 
 
 顔よし声よし姿よし。歌舞伎界にあって仁左衛門は三拍子そろった数少ない役者のひとりである。ひとくちに三拍子などというが、三拍子そろう役者はむしろ稀であり、しかしだからといって、三拍子そろった役者が必ずしも名優かどうかはまた別の問題である。
 
 当然のことではあるが、役者の人気と実力は両立しない場合もあり、人気は上々なのに実力のともなわない役者もいるし、その逆もいる。ただはっきりいえるのは、いつの世も実力より人気が優先されるということであり、それは多くの見物がそう志向するせいもあろうが、実力より人気のほうが金になるという興行主の思惑もあるだろう。
 
 私が仁左衛門を贔屓するようになったのは、平成三年南座顔見世の「熊谷陣屋」の熊谷と「封印切」の八右衛門をみたまさにその瞬間からであった。まだその当時の仁左衛門は本名の片岡孝夫を名のっており、玉三郎との孝玉コンビで人気を呼んだことは周知の通り。
 
 孝玉コンビの人気狂言のなかでは「桜姫東文章」の釣鐘権助、「二人椀久」の椀屋久兵衛、「与話情浮名横櫛」の与三郎、「雪夕暮入谷畦道」の直次郎などが、ニン、ガラともに仁左衛門のものである。
無論、孝玉人気は孝夫の長身、颯爽とした姿と口跡のよさばかりではない、玉三郎の聡明さ(劇的理解力)、新鮮な色気とが相俟って人気が人気を呼んだといえよう。玉三郎は腰高ゆえ時代物には難があるが、世話物(お富や三千歳)では無類のうまさをみせる。
 
 当時の孝夫、玉三郎は若かった。ふたりとも今なお華奢な身体をしているが、とりわけ孝夫は見るもあわれなほどの痩身で、武智鉄二はその頃の孝夫を『「五大力」の稽古中、楽屋でコッペパンをかじっている孝夫に、「どうしてコッペパンなんか食べるの」と思わず悲壮感をこめてたずねた私に、やはり悲壮感ただよう声で孝夫は、「せりふを覚えるまでは食欲がないんです。役をつかむまで、いつもそうです」と答えた』と記している(定本・武智歌舞伎A)。
 
 武智鉄二は同書でこうも記している。『芸の基本は体力だ。差別のやかましい世に、歌舞伎の美が女に座を譲れないのは、生理体力の面で男の芸事で‥(中略)‥精神のやせおとろえは困るけれど、肉体のやせおとろえも困るので、僚友玉三郎ともども、食事は十分にしてもらいたい‥‥云々。』
 
 さて、平成三年南座顔見世で熊谷と八右衛門をやったとき、孝夫は芸に円熟味の出かかる四十七歳の男盛り、「熊谷陣屋」では、義経に対してわが子・小次郎の首を敦盛の首と偽って差し出す熊谷の大胆さ、そして、出家する武士(もののふ)のあわれを分厚いハラで演じ、そのハラのなかに馥郁たる香りの花を散逸させ、「封印切」では、鴈治郎の忠兵衛にからむ八右衛門を、石でも投げてやろうかと思うほど憎々しく演じ、出色のできであった。
 
 八右衛門は忠兵衛を挑発するためにさんざん悪態をつき、ああいえばこういうの悪口雑言で誇りを傷つけ、プッツンした忠兵衛が、店の小判の封印を切るのを確かめた後、邪心にまみれた面持ちで花道へ引っ込むときのあの顔、あの姿、刃物を使わず人を殺す八右衛門の奸智がまざまざと舞台に横溢し、凄惨のきわみとしかいいようがなかった。
 
 仁左衛門はいうまでもなく研鑽の人であり、歌舞伎における写実を独自に工夫し、表現してきた役者である。仁左衛門の至芸を、長年舞台をつとめてきた者の積年の精進と工夫が結実してあらわれる類の芸であるというのはたやすいが、芸は役者の成長過程でいかようにも変貌するであろうし、精進が常に報われるものでもなかろう。
努力の甲斐あって名優となれるのなら、努力した者全員が名優になっても何の不思議もないわけで、そうはならない何かがこの世に存在する。
 
 至芸は何の前ぶれもなく、選ばれた者にのみ、ある日突然天から降ってくるのではなかろうか。神的瞬間に達するというのはそういうことではあるまいか。しかし仁左衛門の神的瞬間は平成三年十二月ではなかった、八ヶ月余の死線をさまよう闘病の日々を余儀なくされた後、生涯に一度あるかないかの大きな試練を経た後それはやって来たのである。
 
 平成四年南座顔見世、孝夫は中日あたりから高熱が出、食事もロクに喉を通らない状態でいたが、そういうときの役者の常として点滴をうけながら舞台をつとめていた。楽日まではどうにか舞台に立てたが、楽日も終わって緊張感がほぐれたのと、それまでの無理がたたったのとで、とうとう孝夫は倒れてしまう。胸のあたりにはげしい痛みを訴え、救急車で運ばれた京都市内の病院では病名の特定すらできず、ラチがあかない。
 
 年明けの一月四日、孝夫は寝台つきの車で東京の病院へ移送され、精密検査の結果、大葉性肺炎と膿胸と診断された。上半身上部の胸といわず背中といわず、いたるところに管を通され、肺付近から膿をぬき取ることとなったが、おびただしい量の膿が出てきたという。
 
 ことはそれだけではなかった。悪いことに食道に亀裂が入っており、そこからもれた食べものが肺のまわりの管にまぎれ込み、管の外へ出るのである。担当医は手術をすすめた。
だがその手術は、単に食道を切開して亀裂をふさぐのではない、胸骨をはずして食道の一部を切除し、食道と胃をつなぐ。そのためには首のあたりにもメスを入れなければならない、喉を切開するということに孝夫夫人・博江さんはおののき、拒否反応を示した。
 
 歌舞伎役者にとって声はいのち、声が出なくなれば役者は終わりなのである。手術しないことの危険を承知で医者は夫人の考えを尊重することにした。そして、夫人と孝夫の長く苦しい闘いの幕が開いたのである。食道の手術をせず、自然の治癒力で食道亀裂の修復をはかるということは、口から直接ものを入れられないということである。
 
 そうなれば点滴にたよらざるをえないが、ありきたりの点滴では栄養不足となり、栄養価の高い点滴を打つということになる。しかし、その種の点滴が患者の体質に合うかどうかが問題で、あいにく孝夫の身体はそうした点滴を拒否した。結局、腸に管をさして直に栄養を入れ、胃にも管を通し、その管から排出するという方法がとられ、そのための手術も施された。
 
 病室では技をみがくことも身体をととのえることも叶わない、しかし心をととのえることはできる、ふたたび舞台に立ちたいと切望しない日はなかったが、再起できるのだろうか、もしかしたらだめかもしれない、そう思いながらも決してだめではない方向を目ざしたかった。今までもそうしてきたではないか、心の流れに逆らわず、心をととのえながら生きてゆくしかない、病床で孝夫はそう思ったに違いない。
 
 齢五十を前にして病魔におかされ、舞台に立てなくなった姿を思い浮かべる自分の弱々しさに気づいては、なお烈々と舞台に立つ日を願った孝夫の気迫が八ヶ月にわたって病魔とはげしく闘い、病魔を退散させたのである。平成五年八月十七日、孝夫は退院した。
 
                         (未完)


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