26   仁左衛門の心技体(二)
更新日時:
2003/09/10 
 
 病床からよみがえった孝夫が舞台に復帰したは平成六年一月歌舞伎座の清元「お祭り」であった。勘三郎が病を癒したあとそうしたように。当時九十五歳の清元志寿太夫の、なんともいえない良い喉につられて、お世辞にも小気味よくとはいえなかったが、お祭りの若衆姿で孝夫は精一杯いなせに踊った。大向こうから「待ってました」と威勢のいい声がかかり、「待っていたとはありがてえ」と孝夫が応じる。おなじみの光景である。
 
 あのとき、あの舞台をみた人は同じ感慨にふけったことだろう。この人をまたみれてよかった、この人はかけがえのない人だ、この人を失ってはならない、芸事の神さまもそう思ってこの人のいのちを救ってくださったのだと。
 
 同年三月歌舞伎座で久しぶりに孝玉は「ぢいさんばあさん」でコンビを組んだ。いつも新婚ムードいっぱいの伊織(孝夫)と妻・るん(玉三郎)はふとしたことから離ればなれになる。ふたりが再びあうのはそれから三十七年後、伊織もるんもすっかり年老いた。ここからの老夫婦の慈愛にみちた心のやりとりは、いまなお私の記憶にはっきりのこっている。
 
 るんが伊織にお帰りなさいと言ったのではない、玉三郎が孝夫にお帰りなさいと言ったのである。あのとき歌舞伎座にいた見物のほとんどがそう思ったことだろう。そう思えたのは、ふたりが技ではなくハラで演じていたからである。玉三郎のハラに長い間つらかったでしょうねという思いがあり、孝夫には、なに、八ヶ月は夢のように過ぎ、こうしてもどって来れました、いまも夢の途中にいますよというハラがあった。そうなのだ、ハラとは心の在りようなのだ。
 
 六月歌舞伎座の「幡随長兵衛」で、萬屋錦之介久方ぶりの歌舞伎、初役・幡随長兵衛に孝夫は水野でつきあった。七月中座の「関西歌舞伎を愛する会」第三回公演では、昼の部「お祭り」、夜の部「堀川波の鼓」の小倉彦九郎、十月歌舞伎座の「御所五郎蔵」で五郎蔵、十二月南座顔見世ではふたたび「お祭り」と、自分の身体と相談でもするかのように、ある月は思いきって休み、またある月は舞台に立つという風に、孝夫は決して無理をしなかった。
 
 いま思えば、私はどの舞台もはらはらのし通しだった。板の上で孝夫をみたいという思いは勿論強かったけれど、いざ板の上で孝夫をみればいつも心配になった。退院して数ヶ月以上たつのに孝夫はまだ痛々しかった。今月は大丈夫でも再来月は出てこれないのではないか、孝夫をみて、うれしさ半分、不安半分、いや違う、不安がうれしさを常に凌駕した。
 
 平成七年正月公演は中座、「落人」の勘平と「封印切」の八右衛門(忠兵衛は翫雀)、三月歌舞伎座は菅原伝授手習鑑の通し狂言で、「筆法伝授」と「道明寺」の菅丞相。五月から六月にかけて孝夫は休むことなく舞台に出た。五月南座は「江戸唄情節」(三味線やくざ)の杵屋弥市と「宿の月」の亀太郎。「三味線やくざ」では孝夫自身が三味線を弾いた。
 
 六月歌舞伎座は「伊勢音頭」の福岡貢。玉三郎が仲居・万野で孝夫に付きあった。あんなに憎たらしい万野は天地開闢以来みたことがなかった。横に鎮座している私を見ると、頭から湯気がのぼっていたとつれあいは云う。憤って湯気が立つのは老化現象ではないか。
それはともかく、いじめられ役の孝夫も調子を取り戻しつつあったのだ。貢に対する万野の加虐さの度合でそれと知れた。孝夫がノッているから玉三郎のノリも全開し、権柄ずくと言葉の打擲に凄味がついたのである。
 
 十月歌舞伎座は「伽羅先代萩」の通しで孝夫は仁木弾正をやったが、このときの仁木は国崩しの実悪というイメージが稀薄で、「床下」の妖術使い・仁木もやや迫力を欠いた。
僚友玉三郎の政岡も、わが子を犠牲にしても若君を死守するという大家の乳人・政岡にしてはハラが薄く、他の共演者(団十郎、勘九郎、藤十郎)の見せ場も空回りし、役者がそろったわりには感興不足で、孝夫が「床下」の仁木で本領を発揮したのはそれから一年半後の平成九年四月、松竹座柿葺落(こけらおとし)のときである。
 
 この稿の(一)で記したように声は役者のいのちである。声を発さない「床下」の仁木で孝夫がなぜ本領を発揮できたのか。そこには病床にいて、先のみえない日々を送っていた孝夫の苦悩が、苦悩するがゆえに行き場を見出そうとする役者魂が、舞台に立っても本調子とはいえないもどかしさへの克服心が在った。
それこそが孝夫の心の在りようにほかならず、それらがここへ来て一気に昇華、結実したのである。決して体力旺盛とはいえなかった孝夫に至芸の元となるハラがそなわったのは、めったとない苦悩を経て魂が血路をひらいたからであり、体力はなかったけれど、両親と芸神から授かった生命力があったからである。病床の八ヶ月はむだではなかったのである。孝夫のハラはそうしてつくられた。
 
 苦悩のなかで魂は救済をもとめる。だが魂は、苦悩のなかでのみ血路をひらこうとするのだ。それなくして私たちはどう成長できようか。
 
 せりふのない床下の仁木に国崩し‥お家乗っ取り‥というハラがなければ、鬼気せまる巨悪を舞台で表現することはできない。病床の孝夫は声を発するかわりに気を発した。それは気迫の気でもあり、鬼気の気でもある。
仁木は口に巻物をくわえ印を結ぶ妖術使い。仁木の孝夫がそのとき花道七三で不適な笑みをうかべたのは、孝夫が妖術でよみがえったことのあらわれなのだ。生命の一滴があの笑みなのである。知ってか知らいでか、孝夫の守護神はときに妖術を使う。これが待ちに待った孝夫完全復活の瞬間である。
 
芸神が孝夫の頭(こうべ)に宿るまでの時間はあとわずかとなった。仁左衛門襲名は孝夫が倒れる前にきまっていたし、父・十三代目仁左衛門もそれを承知で平成六年三月に逝ったが、孝夫は平成九年四月、床下の仁木でようやく仁左衛門の産声をあげようとしていた。
 
                          (未完)


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