28   2003年7月松竹座 名月八幡祭
更新日時:
2003/07/23 
 
 鄙(ひな)に生まれ鄙に育った男(新助)が江戸で呉服(越後ちぢみ)の商いをしている。商いとはいっても店を構えるのではなく、反物を携え、一軒々々家をたずね歩く行商人である。
名月八幡祭の八幡祭は深川八幡のお祭りのことで、従来は隔年に行なわれていたのだが、寛政8年(1796年)の大喧嘩でしばらく中止になっていた。祭りが再開されたのは文化4年(1807年)8月、久しぶりの祭ということで、深川町衆の意気込みは強かったという。
 
 多くの山車(だし)が出て祭の賑わいが頂点に達するころ、一番山車が永代橋の向こうを通りかかり、山車みたさの人々が永代橋にあつまって、橋の上が真っ黒になったと資料に記されている。折りしもそこへ一橋民部卿(将軍家斉の弟)の行列が通行することとなり、警護の者が鉄棒で「片寄れ、片寄れ」と群衆を整理したものだから、群衆の多くは行き場を失って永代橋に押し出してきた。
 
 橋の反対側からも大勢の人たちが押し出し、橋にあつまった黒山の群衆が押し合いへし合いしたから、その重みで永代橋はまっぷたつに折れて大川(隅田川)に落下した。町奉行の調査によると、溺死した者四百五十人、救助された者三百四十人と報告されているが、本当は千五百人ほどが溺死したという。地震などの天災や火事を原因としない、単なる事故の死者数としてはまさに未曾有のものである。以上が名月八幡祭の時代背景である。
 
 深川の芸者美代吉(時蔵)は藤岡慶十郎(扇雀)という旗本を旦那にしているのだが、船頭三次(愛之助)というごろつきを色(情夫)にしている。この三次という男は無類の博打好きで、少なくとも百両の借金を負っている。美代吉のところに来ては金の無心をするが、深く馴染んだ男ゆえ美代吉はその都度何両かの金を用立てる。
無論美代吉も三次のためにかなりの借金をかかえている。そこへもってきて久しぶりの深川八幡祭、美代吉は祭用の百両をこしらえなければ売れっ子芸者の顔が立たない。
 
 旦那に言えばそれなりの成果のある話なのだが、女の意地を通したい美代吉は旦那(藤岡慶十郎)には頼もうとしない。そこへ前々から美代吉に思いを寄せている新助(橋之助)が訪ねてくる。新助としては、美代吉が自分と一緒になってくれれば、彼女の入り用の百両をつくるという心持ちで話をもちかける。
ここがそもそもの行き違いで、美代吉の心持ちは新助のそれとはまったく違う。美代吉は新助が金を都合してくれればよいのだ。新助は郷里越後の田地田畑を売って百両をこしらえる。父祖代々の土地は新助の命そのものなのだ。父祖代々の土地を持たず、したがって土地への執着心もない美代吉に新助の気持を推量できるわけがない。
 
 百両の金は藤岡慶十郎が手切れ金に人を介して美代吉に届けたため、新助が命がけで用意した百両は不要となる。切羽詰まって進退きわまった男と、ほんの出来心の女、田舎者と、その田舎者を小馬鹿にしている女、身辺でおきた出来事に対する価値判断の軽重差はあまりにも大きかった。純な男と、世の中の塵芥に洗われた不純な女との行き違いは、深川の芸者殺しという終局をむかえるのである。
 
 さて、愛之助(三次)は売れっ子芸者の情夫としての色気が足りない。悪ぶったところと、ふとした時に出る可愛さ(これが女心をくすぐるのであろう)はうまく表出されてはいても、女盛りの芸者をとろけさせる性的魅力が不十分である。これでは橋之助の新助との比較上不具合が出る。これでは美代吉も心変わりするのではなかろうか、情夫より良い男の出現に。
 
 三次が金の無心に再度やって来て、さすがの美代吉も前回と打って変わって拒絶する場面がある。三次は逆上寸前で帰ってゆくのだが、一時の激情が角つき合わせても、それで別れられるなら問題はない、それで別れられるわけではないから男と女はややこしい。激情のもつれや喧嘩は、かえってお互いが必要であることを再認識させる小道具にすぎない。
そういった若い男女の心のあやはハラで表現せねばなるまい。濡れ場のない色模様は、いかにもそれらしい男女という風情が要る、でなければ、深くなじんだということが見る者に伝わってこない。その点時蔵はうまい、男女のかかわりをさらりと匂わせる。
 
 橋之助には自らが田舎者であるというハラがない、だから新助が都会人にみえてしまう。
それゆえ、美代吉が新助を田舎者とバカにする場面がしっくりしない。また、二幕目の魚惣(弥十郎)居宅の場、新助が反物持参でいるところに美代吉の乗った舟が通りかかり、美代吉が「また来ておくれよ、待ってるよ」と新助に愛想をふりまいて去っていった後、新助が「いい景色でございますねえ」と言うが、このせりふがよくない。
美代吉を恋い焦がれるというハラが薄いからせりふも拙く、この場が空回りして宙に浮く。
ここを際立たせないと、後の修羅場が生きてこないのである。
 
 新助が美代吉に百両用立てるところでのせりふ、「もし姐さん、わたしをおだましなさるんじゃないでしょうねえ」は疑い深い男のハラがあってうまい。
魚惣(弥十郎)が帰郷予定の新助を引きとめなければ悲劇はおきていない。ほとんどの悲劇は今も昔も、ほんの些細なことがきっかけとなっておきる。悲劇に至るまでの自然で無理のない流れは作者の腕の見せどころ、そこは役者の芸の見せどころでもある。名月八幡祭は池田大悟作で、初演は大正七年(1918年)歌舞伎座、総じて心理劇の様相を呈している。 


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