21   2004年7月松竹座 仁左衛門の「俊寛」
更新日時:
2004/07/10 
 
 下手岩陰からの俊寛の出、前回(2001年7月)松竹座に較べるとヨタヨタせず、杖にもたれかかる動作にも弱々しさがなく、〜〜さて、庵に参ろう」のせりふも省略され、仁左衛門新境地の俊寛を予感させる。流木でつくった粗末な庵に入る様子、入った後の動きも特に緩慢さは見られず、むしろ力強く、それはそれで大道具に溶けこんでいる。そのあたりの新演出は仁左衛門独自の工夫であり、仁左衛門の巧さである。その点に関しては後述する。
 
 丹波少将成経(秀太郎)と海女・千鳥(時蔵)とのなれそめを平判官康頼(翫雀)が語るくだりの俊寛のせりふ、「聞きたし聞きたし、ささっ語りたまえ」は、仁左衛門特有の野太い声がトーンを上げて、絶海の孤島・鬼界ヶ島が束の間リゾート地に様変わりする。このほほえましい光景がなければ、流人だけでなく見る者も救われない。流人のみじめな暮らしに彩りをそえる一輪の花が千鳥である。鬼界ヶ島に一滴の酒のありえようはずもなく、俊寛の媒酌で夫婦固めの水盃を交わす人々。
 
 そこへ都から平清盛の赦免状を持参する瀬尾太郎兼康(段四郎)。だが、その赦免状には俊寛の名が記されていない。名がないということは都への帰還はゆるされないということである。元々俊寛のハラには流刑にした清盛に対する恨みがある。心の奥に恨みを秘して帰還の日を切望していた俊寛の怒りは噴出するが、それは清盛への憤りなのだ。
 
 婚礼模様は急転直下、俊寛の愁嘆場に変わる。そこへ平重盛の書状を持って丹左衛門(我當)があらわれる。丹左衛門が書状を読み上げたときの俊寛の喜び、怒髪天を衝(つ)くというが、それとは正反対の、破顔波頭を崩すというような喜びようである。
ここまでを一気に描き出す近松の脚本はいささかの古さもなく時代を凌駕する。明と暗をかくも短い時間に表現し、微塵の不自然さのないのは、近松の技量というほかない。それにしても今般の俊寛は共演者に秀太郎、段四郎、時蔵など役者が揃った。
 
 さて、成経と未来を契った千鳥にすれば、自分だけが島に残るのはどうしても納得がゆかない。そこで千鳥の愁嘆場となるのだが、さすが時蔵、千鳥は千鳥でもほかの千鳥とは違う味わいを見せる。恋人との不意の別れにひどく落胆し、意気消沈した娘の可憐さではなく、成熟した女の情念を所作で示すのである。
この場で単に哀感を出すだけでは、後の千鳥のせりふ、「武士(もののふ)は人のあわれを知るというが‥鬼界ヶ島に鬼はなし‥鬼は都にありけるぞ」がぼやけてしまう。契りを交わした男との別離が女にとってどれほど耐えがたいかを情感たっぷりに演じるから、次の場面が活かされるのである。
 
 「俊寛」を見て思うことのひとつは、清盛がなぜ俊寛の妻まで斬首にしたのかということと、そのことを瀬尾が俊寛に憎々しげに言い放つのかということである。瀬尾の言うごとく、俊寛が清盛の恩顧を忘れて鹿ヶ谷で平家打倒の謀議をめぐらしたことが清盛の逆鱗にふれたからなのか。いや、そうではあるまい、鹿ヶ谷の変には成経や康頼も加わっていた。
 
 瀬尾にとっては俊寛僧都の存在そのものが鼻持ちならないのだ。僧籍にあって、武士のように生命を賭して戦に参加したわけでもないのに、経を読むだけで一時とはいえ平氏の寵愛をうけたことが赦(ゆる)せないのである。清盛にかこつけて、憤懣やるかたない瀬尾の気持を鎮(しず)めるための俊寛いじめ。それを見た客は瀬尾を懲らしめたいと思う。それも近松の計算のうちである。
 
 瀬尾は当時の政府の役人であり、役人根性というか、役人気質というのは今も昔も変わらないとつくづく寒心する。俊寛に斬られようとする瀬尾は丹左衛門に助太刀を求めるのだが、それを断った丹左衛門に、「そりゃ、あまりに無慈悲というもの」と言う。慈悲は与えるものではなく、与えられるものだという利己主義。それを役人根性といわずして何としよう。
そしてまた、丹左衛門も役人であってみれば、他方の役人に対してわれ関せずといった態度を見せるのであり、それはとりもなおさず役人=官僚の在りようなのである。
 
 ところで、なぜこの時期に、まして、海老蔵襲名の狂言にふたたび俊寛なのか。俊寛なら何度も繰り返し上演した狂言ゆえ、せりふはほとんど憶えているし、したがって多忙な役者も稽古せずにすむからなのか、いつものように役者と松竹の都合でそうなったのか。ところが、今回の俊寛にかぎってはそうではないと私は思った。
 
 鬼界ヶ島から都へ帰れる人と帰れない人、その差は天と地ほどの差である。その差、帰れない人の悲哀は人が知るのである、決して国家や役人に知りえようはずがない。俊寛は過去の物語ではない、鬼界ヶ島(鬼界ヶ島は現存する)はいつの世にも存在する。
北朝鮮という鬼界ヶ島。仁左衛門の心の風景に映った鬼界ヶ島は北朝鮮ではなかったろうか。そういう解釈が仁左衛門の心のなかによぎったのではないだろうか。
 
 歌舞伎は古くて新しい、近松が現代を描きながら、人形浄瑠璃や歌舞伎のなかに人間の永続性を封じ込めようとしたのと同様に、仁左衛門もまた何かに突き動かされ、それまでの俊寛とは異なった人間像を演じたのである。
 
 仁左衛門はほかにも新演出を考案している。この人は創意工夫の人なのだ。出番のない月も常に何か構想を練っている人なのである。だからこそ常に物事を構築できるのである。考えることと構築することとは別のことであり、考えるから構築できるというわけのものではない。考えたことがただちに構築可能なら、この世はベストセラー作家であふれかえる。
仁左衛門が猿之助や菊五郎などと共通するのはそういう点であり、彼らは常に構築を目ざしているのだ。各々抽出の仕方や表現方法は異なるが、思うところは同じ、歌舞伎の存在意義と発展である。
 
 仁左衛門は今回の大詰で、花道のスッポンに俊寛が沈みそうになる深みをつくった。いままでにない演出である。これが視覚的効果と、孤島にのこされた俊寛の隔絶感を見事に表出して上々吉。また、岩に立って遠ざかる舟を目で追うようすにも工夫が見られた。義太夫の「思い切っても凡夫心」‥やはり俊寛も都に帰りたいのだという人間本来のあさましい姿‥を描くだけでなく、帰れる人のしあわせ、帰れない人のふしあわせを表現したのである。
 
 自分は島にのこるが、都への思いはやすやすと断てるものではないが、これが運命ならあきらめるよりほかないではないか、という錯綜した思いが加味された俊寛像。人はあさましくもあるが複雑で、一筋縄ではゆかないのだ。結局、そういう人間像が本質的な近松のそれではなかったか。歌舞伎の名作は、仁左衛門という名優を介して常に新しい。 


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