20   2004年7月松竹座 海老蔵・仁左衛門の「勧進帳」
更新日時:
2004/07/16 
 
 能を下敷にした歌舞伎狂言には名品が多い。土蜘、舟弁慶など演出や小道具の拵(こしら)えや衣裳、そして音曲に秀でており、歌舞伎独自の工夫が加えられている。なかでも「勧進帳」は長唄の聞かせどころが出色で、富樫の名のりの後の義経・花道の出、「旅の衣は篠懸(すずかけ)の〜」、「月の都を立ちいでて」からはじまる長唄の名曲は何度聴いてもそのつど胸が熱くなる。
 
 弁慶(海老蔵)のみならず、富樫(仁左衛門)と義経(鴈治郎)の出来不出来はそのまま勧進帳のそれに直結する。そういう意味で海老蔵はまことにしあわせ、当代随一(菊五郎の義経も秀逸)の富樫と義経である。富樫は仕所(しどころ)で弁慶に対して従の立場、義経は仕所は少ないが、ひたすら忍の一字で緊張を強いられる立場をハラで演じる。
 
 仁左衛門の濁音の入ったバリトンが本領を発揮。客席のすみずみまでとおる口跡のよさ、せりふ回しのよさが舞台から波打つように広がり上々。「これやこの、行くも帰るも別れては、知るも知らぬも、逢坂の山隠す霞ぞ春はゆかしける〜」の長唄にのって鴈治郎が花道七三で向きをかえ、左足をのばし杖を斜めにして右肩に当て、山を見上げる形も美しく決まった。
 
 次に弁慶の出である。関所破りを試みようとする四天王を押さえる弁慶の開口一番、「ヤーレ暫く御待ち候え」を海老蔵は見事に言う。口跡のよさと声量もさることながら、貫禄もそなわって威風堂々、ほれぼれする。と同時に、これが昼の部の切られ与三郎と同じ海老蔵かとあきれる。与三郎はお世辞にもうまいといえない。せりふ回しに流麗さがなく間もよくない。お富への思い入れにも欠ける。やはり海老蔵は世話にはむかない、時代の役者である。
 
 富樫のきっぱりとしたせりふ、「アァラ難しや問答無益、一人も通すこと」から状況は一変し、緊張感がみなぎる。ここは仁左衛門ならではの名調子である。番卒の「まかりならぬ」のせりふでのクルッと上手に向き直り、足早に上手へゆくキレのよさと颯爽とした姿も仁左衛門の見せ場。富樫の要求にしたがって弁慶は勧進帳を読み上げるのであるが、「そ〜れ、つらつらおもんみれば」から実に朗々と読む。
ただ、この場での海老蔵のハラがうすい。大事な場ゆえ、東大寺建立の勧進(寄付を募る)のために全国行脚する山伏の、行く先々での苦労が重なったというハラで演じてもらいたい、ウソとわかっていても。弁慶が読み上げをはじめると富樫がズズッとにじり寄って巻物を窺う。互いの腹のさぐり合いが妙味。
 
 次の山伏問答は能(「安宅」)にはなく歌舞伎だけの見どころのある演出で、富樫がたたみかけてゆくのに対して、弁慶はゆっくりこたえるのがよいとされるが、この場の海老蔵と仁左衛門は実にいい。舞台いっぱいピーンと張りつめ、客席がシーンとなる。問答はきわめてリアルで劇的、富樫の突っ込み、弁慶のかぶせ、せりふの一つ一つが生き物のように飛び交う。
 
 ただし、その次の富樫に呼び止め(緊迫感にみちた名場面)られての義経打擲の後、富樫とのせめぎあい、「まだこの上にもお疑い候わば〜」以下の弁慶のせりふが早口すぎてメリハリに欠けるのが難。その割には、義経に礼を言われた弁慶の、「アラ、もったいなや」のせりふ回しは十分な愁いがあって上々。こういうせりふはハラがないと上滑りしてしまう。
 
 酒宴での長唄、「人の情の杯を受けて心を〜」はいつ聴いてもしっとりしたいい唄である。その唄が流れる舞台で、豪放磊落な弁慶の大笑い。海老蔵の弁慶は笑いだけでなく芝居も大きい。延年の舞も大きく見せて上出来。
「アラ恥ずかしの我が心、一度まみえし女さえ」という長唄の文句が唯一色っぽい箇所であるが、ここは海老蔵には難しかったろう、風格と荒々しさを併せ持つ弁慶が遊び心を表出せねばならないとは。大徳利を持つ左右の番卒を手で招き、左指を一つ折り右指で向こうを指すと、女の話にそそられた番卒が腰を浮かし、指の示す方向を見る。弁慶が番卒の肩をポンと叩くと番卒が倒れる。遊び心とユーモアが漂う場である。
 
 かつて岡鬼太郎が、「幸四郎(七代目)は柄の弁慶、菊五郎(六代目)は踊りの弁慶、吉右衛門(初代)はせりふの弁慶、羽左衛門(十五代目)は耳の弁慶、猿之助(二代目)は目玉の弁慶」と批評したと武智鉄二は書いているが、海老蔵の弁慶は曾祖父・七代目幸四郎に似て「柄の弁慶」というべきか。《括弧内は筆者註》
 
 さて、大詰も近い。飛び六法の花道の引っ込みの前、義経が無事に去った方向を見やったときの海老蔵の目。この目に込めた海老蔵の安寧と安堵の情は特筆に値する。本人も万感胸にせまる思いであったろう。わずか2秒ほどのその目に私は胸がいっぱいになった。
松竹座で毎日この目が出来たなら、今後の海老蔵の弁慶は歴史に残るものとなるだろう。単に当たり役というだけでなく、花も実もある弁慶となることは確かである。


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